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第31回へ                  第32回 2013年6月8日掲載                  第33回へ >
山添村の神波多神社 ―― 石段に彫られた「盃状穴」の謎
 
 神波多(かみはた)神社(山添村中峯山(ちゅうむざん))は、かつての伊賀と大和の国境近くに鎮座し、延喜式神名帳にも名が載る古社だ。本殿は見上げるような石段の上にある。本殿から南を望むと、息をのむほど美しい瓦屋根の山村風景が目に飛び込んでくる。
 同神社の主祭神はスサノヲノミコト。毎年10月15日に営まれる天王祭では、本殿から御旅所(おたびしょ)である「牛の宮」まで、猿田彦(さるたひこ)にふんした道案内に続き獅子舞(ししまい)、田楽のほか、各地区代表がささげる幟旗(のぼりばた)、花笠、神輿(みこし)、鬼などから編成された大行列が急な石段を降りてゆく。笛や太鼓が奏でられ、何とも古式ゆかしいお祭りである。
 同神社で見逃せないのは、石段表面に彫られた「盃状穴(はいじょうけつ)」だ。直径3.5センチの盃(さかずき)状の穴で、深さは1センチほど。硬い刃先を回転させて彫ったようだ。石段だけでなく、石の手水(ちょうず)鉢の縁(ふち)にもたくさんの穴が彫られている。
 盃状穴を教えてくれたのは、「山添村いわくら文化研究会」会長の小山公久さんだ。盃状穴という名も、小山さんから初めて聞いた。
 私が盃状穴に関心を持ったのは、東大寺転害門(てがいもん)の石段や、二月堂への西の入り口にある焼門跡の礎石に、この人工的な穴を見つけたことに始まる。
 その後、秋篠寺や鴨山口神社をはじめ、いくつかの寺社でも同様の穴を見つけることができた。しかし、その意味を地元の人に聞いても、首を横に振られるばかりだった。
 何のための穴なのだろう。祭祀(さいし)用に水を供えたのか、灯明用か。または安産・無病息災などの御利益を求め、石を削るときに出た粉を神棚にお祭りしたのか。はたまた、それを飲んだのか…。
 私は、明治の神仏分離令で消された牛頭天王(ごずてんのう)への厄除け祈願の痕(あと)と推定している。牛頭天王はもとはインドの神様だったが、わが国では仏教にとり入れられ、のちにスサノヲと同一視された。地元では今も同社のことを「ごずさん」と呼んでいる。
 同社の周辺道路には「二月堂」と彫られた石灯籠がいくつか残されている。お水取り(東大寺修二会(しゅにえ))の練行衆は、「牛玉櫃(ごおうびつ)」と墨書された身の回り品を入れる葛籠(つづら)を携える。
 東大寺は、この行事を支える伊賀一ノ井松明(たいまつ)講の講員に対し「二月堂牛玉(ごおう)」のお札を授与する。牛玉は「牛王」とも書き、牛頭天王の霊験あらたかな印のことである。
天王祭の大行列で幟旗を掲げる参加者ら=昨年10月、山添村の神波多神社  
 和歌山県の熊野古道中辺路(なかへち)に鎮座する須佐神社(祭神はスサノヲ)の石段でも、盃状穴を見つけることができた。
 また、ヒンズー教と仏教が融合した遺跡であるカンボジアのアンコールワットを訪れたとき、砂岩を積んだ参道で石の表面に彫られた無数の穴を見つけた瞬間、これら3つの世界遺産が盃状穴で結ばれていることに感動を覚えた。
 山添村では、春日神社(同村春日)で12月に催される申(さる)祭で、残り紅葉を背景に奉納される白装束の翁舞も忘れがたい。
 ほかにも村には、古代の巨石信仰を今に伝える古社やイワクラがたくさん残されている。ぜひ山添村に足をお運びいただきたい。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 藤村清彦)
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