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第49回へ                  第50回 2013年10月19日掲載                  第51回へ >
長屋王の父・高市皇子 ―― 十市皇女に情熱的な挽歌
 
 高市皇子(たけちのみこ)は天武天皇の第一皇子で、母は筑前の豪族・宗像徳善(むなかたとくぜん)の娘、尼子娘(あまこのいらつめ)だ。大津皇子は同じく天武の皇子ながら、文武に優れた素質とその悲劇的な最期が語り継がれ、今も人々の心に残る。大津とは対照的に高市のことはあまり知られておらず、地味な存在に見えるかもしれない。
 しかし私はそんな高市皇子が好きだ。このナンバー2的なところにひかれるのだが、柿本人麻呂が万葉集に残した全149句にも及ぶ万葉集最長の壮大な挽歌(巻2−199)や日本書紀の記述からその生涯をうかがい知ると、かなりの実力者であったことがわかる。
 壬申の乱では天武の長子として近江から駆けつけ、のちに軍の全権を委ねられ、吉野軍を勝利へと導く重要な役割を果たした。持統朝では太政大臣として政務の中心にいた。
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 高市皇子につながる故地を訪ねよう。人麻呂の歌からその宮は香具山山麓、仮葬の地は広陵町百済付近と推測できるが、遺跡は残っていない。しかし高市にゆかりのある神社がある。桜井市外山(とび)の宗像(むなかた)神社だ。
 全国にある宗像神社のなかでも、京都御苑内の神社とともに由緒は古い。祭神の宗像三女神は海上交通の神で、高市の母、宗像氏の信奉する神だった。


高市皇子ゆかりの宗像神社=桜井市外山

 壬申の乱では宗像氏の大きな功績があったとされ、のちに宗像神を鳥見(とみ)山中腹に祭ったのが最初と思われる。高市の後裔(こうえい)が代々祭祀(さいし)を司(つかさど)り、衰退した時期がありながらも一族によって守り伝えられた。幕末から明治にかけて綿密な調査が行われ、いにしえの宗像神社が現在の地に復活した。
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 高市皇子の子には「悲劇の宰相」と言われる長屋王がいる。父・高市の菩提(ぼだい)を弔うために創建されたと考えられる寺院跡が、桜井市橋本にある青木廃寺だ。ここは今でも古瓦が散見される。


地元住民によって守られている青木廃寺=桜井市橋本
 古代瓦研究家として知られる元近畿大学教授の大脇潔氏は、長屋王邸跡(現イトーヨーカドー奈良店)から出土したものと同じ型の瓦が多数出土していることや、高市の子孫である高階(たかしな)氏の銘の入った瓦が見つかっていることから、長屋王が父・高市の冥福を祈って建てた寺と考証している。
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 高市皇子は万葉集に歌を3首残しているが、この3首すべてが年の近い異母姉、十市(とおち)皇女への挽歌だ。十市の短い生涯を惜しみ、会いたいと願う気持ちが切々と詠まれている。
 山吹の立ちよそひたる山清水 汲みに行かめど道の知らなく(巻2−158)
 奈良市高畑町の新薬師寺門前に小さなお社がある。現地の伝えによると、十市の墓という。もとは小さな塚だったが、昭和50年代に有志によって整備され、十市を祭神とする「比賣神(ひめかみ)社」としてお祭りされるようになった。
 私は高畑の集落に入ると、「十市の死をあれほど嘆いた高市だ、きっとここにお参りしたにちがいない」と思い、比賣神社を目指しながら「十市、会いにきたよ。今行くからね!」と気分はすっかり恋する高市になる。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 辰馬真知子)
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