なら再発見
第51回へ                  第52回 2013年11月2日掲載                  第53回へ >
龍田山 ―― 西の守りと風神降臨の地
 
 春の桜、秋の紅葉。移ろいゆく龍田(たつた)山の季節に、人の世の哀感を込めて多くの古歌が詠まれた。
 三郷町を流れる大和川北西の山並みを総称して龍田山と呼ぶ。龍田山から流れ落ちる滝水が合流したこの流域の大和川は、古くは龍田川と呼ばれていた。多くの官人や兵士が、 古代には交通の難所だったという龍田山を越え、大和と難波を往来した。
 妹(いも)が紐(ひも) 解くと結びて龍田山 今こそ黄葉(もみち)はじめてありけれ
(「万葉集」巻10−2211)
 古代には、愛しい人とお互いの紐を結び合い、次に会うときまでは、その紐を解かないように誓って旅立ったという。この「龍田越え」の旅は、別離と再会の岐路でもあった。
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 各地から紅葉の便りが届きはじめ、無性に龍田山を歩きたくなった。JR三郷駅前に、百人一首で有名な能因法師の「嵐ふく三室の山のもみぢ葉は たつ田の川の錦なりけり」の歌碑がある。>


大和川から眺める龍田山

 まずは龍田大社に参拝する。社伝によると、崇神(すじん)天皇の世に疫病や凶作が続いた。朝日の日向かう所、夕日の日隠れる所にわが宮を創建すべし、との神託を受けて、天皇は神々の降臨を願って龍田山頂上を御座(ござが)峰とし、山裾の三室山に風を司(つかさど)る天御柱(あめのみはしら)(龍田彦)と国御柱(くにのみはしら)(龍田姫)の二神を祭ると五穀豊穣(ごこくほうじょう)となった。龍田大社の始まりだ。
 以来、風の神といえば龍田大社が真っ先に挙げられる。天武天皇4(675)年に始まったという風鎮大祭(ふうちんたいさい)は、今日まで連綿と続く神事だ。風神降臨の地・御座峰は、龍田山の高さ約320メートルの峰にある。
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 三郷駅へ戻り、大和川沿いを西へ数分歩くと「関地蔵」を安置する辻堂がある。堂内の地蔵は摩耗して面相をとどめていない。日本書紀は天武天皇8(679)年、龍田山に関を置くと記している。当地が西の守り「龍田の関」伝承地とされる。前方に龍田山を見て「いざ、越えんかな」とゆるんだ靴ひもを結び直した。


風の神で知られる龍田大社=三郷町
 三室山は龍田山の峰のひとつで、地図には高さ137メートルとある。山と呼ぶほどの高さではない。
 木々が色付き始めた坂道をゆっくり上がり、誰もいない三室山展望台で小休止。さらに急坂を登ると、大和川を見下ろす斜面に龍田大社創建の地を示す「龍田神社本宮趾」の碑がある。周辺には数個の自然石の磐座(いわくら)があった。旅人は道中の安全を風神に祈り、龍田山を越えていったのだろう。
 三室山の木陰道を抜け出ると、視界が開け、秋晴れの空がまぶしい。大和平野を望む風神降臨の地に「御座峰」碑はひっそりと建っていた。
 風雨の恵みに感謝し、自然の猛威を風神の怒りと恐れ、古代人は朝な夕なに龍田大社の風神に敬虔(けいけん)な祈りを奉げたことだろう。
 眼下に広がる三郷町の街並みや大和川のパノラマの中に、龍田大社の森は確かな位置を占めている。大和と河内の分水嶺(ぶんすいれい)に立ち「朝日が向かい、夕日が隠れる」龍田山を実感した。
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 近年の日本では、集中豪雨や竜巻が頻発する。地球温暖化への風神の警鐘だろうか。
 汗ばんだ全身に秋の涼風を受けながら、はるか遠い古代人の素朴な日常と心情に思いをはせた。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 田原敏明)
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