< 第101回へ 第102回 2014年12月06日掲載 第103回へ > |
中ツ道 ―― 壬申の乱の戦場 伝える |
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古代には大和平野を南北に走る3つの古道があった。東から「上(かみ)ツ道」「中ツ道」「下(しも)ツ道」。中ツ道は藤原京の東四坊大路と平城京の東四坊大路をほぼ一直線に結び、各郷村の境界線になっていた。
平城京の衰退とともに廃(すた)れたが、中世には橘街道として継承された。「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたる事も 無しと思えば」と詠った絶頂期の関白・藤原道長が、吉野山参詣時に通った道でもある。
大和の原風景が拡がる中ツ道跡沿いに、日本書紀が語る「壬申の乱」の一コマを伝え残す村屋坐弥富都比売(むらやにますみふつひめ)神社(田原本町蔵堂)周辺を訪ね歩いた。
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桜井市西之宮の三輪神社西南隅は藤原京北東角にあたり、当所で中ツ道と東西に走る横大路が交差する。中ツ道跡の小路を挟んで、東側は桜井市民、お向かいさんは橿原市民だ。「中津道(桜井市)」の町名は「中ツ道」に由来するのだろう。東に三輪山、西に二上山、振り返ると大和三山、その後方に多武峰や金剛山を眺めながら、一般道を避けて収穫が始まった田んぼのあぜ道を北上する。
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村屋坐弥富都比売神社本殿(左)と村屋神社(右)=田原本町蔵堂
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橿原市東竹田町は、大伴氏の荘園だった「竹田の原」の故地だ。町を流れる寺川の竹田大橋から周囲を見渡すと、平城京にいる娘を思いやる母の大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)が詠んだ「うち渡す 竹田の原に 鳴く鶴(たづ)の 間(ま)なく時なし 我が恋ふらくは」の情景が浮かぶ。
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田原本町に入り、農作業中の老人に村屋坐弥富都比売神社の所在を尋ねた。村屋神社はまだ先と前方の森を指差す。村人は村屋神社、と通称名で呼ぶようだ。鳥居前へ延びる道は中ツ道だ。村屋神社が中ツ道にあり、壬申の乱の戦場となったことを日本書紀は記す。
672年、大海人(おおあま)皇子(天武天皇)軍と大友皇子(弘文天皇)軍が各地で骨肉の争いを繰り広げ、この村屋の地でも両軍が対峙(たいじ)した。「今吾(わ)が社(やしろ)の中道(なかのみち)より、群衆(いくさびとども)至らむ。故(かれ)、社の中道を塞(た)ふべし」。急ぎ敵襲より中ツ道を防げとの託宣が、大海人皇子軍を勝利に導いた。この功績により天皇から位が授けられ、これが神階(しんかい)の始まりとされる。
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写真2:山辺御県坐神社拝殿(右)と観音堂(左奥)=天理市西井戸堂町
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境内を抜けて大和川沿いの道に出た。道にはめ込んだ「大和・山の辺探訪物語 水の辺 田原本町」のプレートに描かれた舟が、「仏教伝来」の往時の水運をしのばせる。
主祭神の縁結びの神、弥富都比売神を祀る本殿近くに摂社村屋神社がある。武甕槌神(たけみかづちのかみ)や室屋大連(むろやのおおむらじ)などを拝祀(はいし)する。戦場ではやはり姫神よりは武神だろうと、遠い日の歴史の残像に浸りながら考える。
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大川橋を渡り北上し天理市へ向かう。県道51号線は中ツ道と重層して走る。中ツ道東側溝跡が最近発掘されている。
51号線横の農道を歩くこと1時間少々で山辺御県坐(やまべみあがたにます)神社(天理市西井戸堂町)に着く。藤原道長が吉野山参詣時に当地で参籠した観音堂も敷地内にある。
境内に「飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去(い)なば 君があたりは 見えずかもあらむ」の万葉歌碑がある。和銅3(710)年、元明天皇は藤原京から平城京へ移る途中で御輿(みこし)を降りて、夫の草壁皇子や息子の文武天皇が眠る飛鳥を振り返り詠んだ歌だ。
過ぎ去りし日々に惜別、自ら遷都の詔(みことのり)を発した新京への決意と不安、民衆の歓喜の声に応えながら入京する女帝の心情を思いながら、中ツ道を歩き続けた。
(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 田原敏明)
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