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椿井城跡 ―― 城主は嶋左近か松永久秀か
 
 椿井(つばい)城跡は矢田丘陵の南端に近い尾根の西側に築かれた戦国期の山城(やまじろ)跡だ。矢田丘陵は、奈良盆地の西側を南北に走る丘陵で、平行して走る生駒山地との間には、竜田川を軸とした平群谷(へぐりだに)が広がる。
 椿井城跡には近鉄生駒線竜田川駅からまず東に進む。徒歩15分で麓(ふもと)の春日神社に着く。神社から城跡までは500メートル。遺構保存のため北郭跡への立ち入りは禁止されているので、春日神社の南にある椿井井戸の側から登らねばならない。
 地元では、筒井順慶(つついじゅんけい)に仕えた後、豊臣家(とよとみけ)の五奉行の一人であった石田三成(いしだみつなり)に召し抱えられ、関ケ原の戦いに散った嶋左近ゆかりの城として左近使用の三つ柏(みつかしわ)紋の幟(のぼり)を要所に立てて道案内に努めている。
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 城跡から西側の展望は素晴らしい。眼下に平群谷とその向こうにそびえる生駒山地が一望でき、平群谷の領主になった気分が味わえる。生駒山地の南端には、二上山のように盛り上がった信貴山が間近に見える。そこに築城の名手松永久秀(まつながひさひで)が信貴山城を築いたのだ。


平群谷椿井集落から見た椿井城跡

 標高は椿井城が243メートルに対し、信貴山城は437メートルと高いが、椿井城から信貴山城までは直線距離で約4キロ余り。復元された現在の平城宮大極殿から大仏殿までの距離に相当する。まさしく指呼(しこ)の間(かん)で、両城が対峙(たいじ)していたとすれば、互いの人馬(じんば)の動きまで読めたであろう。
 逆に東の奈良盆地側は全く見通せない。矢田丘陵は椿井城の北で東西に分岐しており、城跡の東側は、浅い谷の向こうにある高い尾根に遮られて展望がきかないのだ。
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椿井城跡のV字形堀切(空堀)から見た信貴山城跡

 椿井城築城の記録は残されていないので、戦国期の動きと城跡の構造から築城者を推定するしかない。
 戦国期の勢力関係は連携と離反が常だが単純化すれば、織田信長(おだのぶなが)の麾下(きか)、奈良盆地西部を拠点とした筒井順慶に仕えたのが嶋左近であり、この勢力と敵対していたのが松永久秀だ。久秀は一時織田信長に臣従するも、最後には叛(そむ)いて信貴山城で自爆(じばく)したとされる。
 かつては、嶋勢が椿井城を築き、信貴山城の松永久秀と敵対していたと考えられていたが、最近では松永勢が信貴山城の出城として築き、久秀が滅びたあと石田三成に仕えるまでの間、嶋左近が入ったのではないかという説が浮上している。
 確かに城跡の東斜面は急峻(きゅうしゅん)で、奈良盆地側の筒井勢に備えて人工的に削られたとも見える。また、平群谷をおさえた力のある久秀の信貴山城から見てこの城は西に進出しすぎており、目障りであったと思われる。
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 城跡はクヌギ林に囲まれており、とりわけ秋の紅葉の時季が素晴らしい。城跡の梢をわたる風の音に耳をすますもよし、戦国の豪傑たちの築城構想に思いをはせるもよし、戦国時代に関心のある人にとって、興味は尽きない所だ。
 ちなみに嶋左近の墓は京都、大阪、対馬にもあるが奈良では三笠霊園東大寺墓地にある。左近が天正5(1577)年、春日大社に寄進した石燈籠が楼門の東側に残る。信貴山城の主(ぬし)であった松永久秀は王寺町の達磨(だるま)寺に眠っている。


(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 藤村清彦)

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