文学の小窓からの風景 第2回目― 「會津八一と奈良」講演会の感想記

4/20(土)・・・参加者59名(三和大宮ビル 6回会議室)

 浅田先生による全5回シリーズの第2回講演は、奈良を憧憬し数々の名歌と書を残した會津八一と奈良の関わりである。
 参加者の増加を見込んで、会場が従来の西大寺三和ビルから三和大宮ビルに変更されたが、天候に恵まれたこともあり多数の参加者で会場は熱気に溢れた。
 司会の日置さんから「浅田先生は、研究活動の他に“奈良大好き人間”を自称されて奈良の魅力を伝える活動を展開しておられる」という講師紹介がなされ、参加者は先生の幅広いご活動の一端に触れることで、同様に多方面で足跡を残した會津八一についての講演に期待が盛り上がった。
 浅田先生のユーモア溢れよどみない、実証に裏付けられた熱弁に会員、非会員あわせて59名の参加者は八一の人間的な魅力にぐいぐいと惹きつけられ、あっという間に過ぎた90分であった。

本日司会・・・交流Gの日置雅夫さん
ユーモアあふれる浅田先生

次に5ページの資料に基づいて進められた講演から、筆者の印象に残った部分を箇条書きで紹介する。
・八一(やいち)は明治14年(1881)新潟市中心街「古町」の料亭會津屋に8月1日に生まれ、このように命名された。自らも八朔(朔は一日の意味)、八朔郎と号し、別名「秋艸道人(しゅうそうどうじん)」、渾斎とも自称する。安直な命名法のようだが、当時の新潟は貿易で栄えた日本海最大の都市であり、會津家は姓名判断などに拘らないむしろモダンな家風であったのではないか。八一は生涯独身で、昭和31年75歳で永眠。
・八一の人間形成に関わった人物として、正岡子規(第1回講演)、坪内逍遥(第5回講演)、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン ギリシア出身のアイルランド系イギリス人―当時ギリシアはイギリス領、のちに日本に帰化)がいる。逍遥は早稲田大学英文科の師ではあるが、一方で八一が歌や書を指導する関係で両者は人格的な師弟関係であった。
・八一は子規の信奉者であったが、親しく話したのは子規が亡くなる2年前の明治33年の一回きり。八一は子規について、「学者、大家のように書物上の知識のみによって文学を語らなかったこと、精緻周到なる史的研究の上に立って主体的に、何者にも追随しないで論を展開した」と評価しており、これは八一の書にある「独往」という彼自身の生き方と共鳴したのであろう。
・八一は小泉八雲の授業で英国詩人キーツを介してギリシアへの憧憬をいだき、次に奈良への憧憬へと転化したが、底流にあるのは古代および彼が生きた19世紀的な分業が確立する前の、あるときは戦士、あるときは芸術を楽しむ人、あるときは学者というオールマイティーの人であった古代人への憧れである。八一自身も独学で多方面の頂点を極め、俳人、歌人、書家、随筆家、東洋美術史家、教育者等多彩な活動を展開した。彼は英文科の出身であったにも関わらず、昭和6年に早稲田大学の東洋美術史担当の教授となる異色の経歴を有している。
・八一は中学時代から万葉集に強い関心を持っており、雪深い新潟とは違う土地への憧れが地中海に面したギリシアと奈良への憧憬に結びついたのだろう。
ギリシアへの憧れは、彼の人間性や文化史理解の視点へ発展しライフスタイルまで影響している。
・八一は旧制中学卒業前後から地方新聞に俳談・俳話を連載するなど「早熟の人」であったが、早稲田大学在学中に東京女子美術学校の学生であった渡辺文子と恋仲になるが、明治40年頃失恋する。
渡辺文子(のちの亀高文子)は明治19年横浜生まれ、のちに閨秀画家として後生の評価に耐える数々の作品を残し、昭和52年没。
・八一は早稲田大学卒業後の明治41年に初めて奈良を訪問。これは失恋の痛手を癒すセンチメンタル・ジャーニーと言えよう。東京から汽車で10時間以上という時代に、生涯35回奈良を訪ねている。
・大正13年、奈良の歌を編集して春陽堂から『南京新唱(なんきょうしんしょう)』を出版したが、奥付には初版にもかかわらず「第三版」と書かれている。これは新人と見られないための販売戦略であるのが面白い。当時、東京に対して京都を西京、奈良を南京と気どって呼んだ。「新」は昔の万葉集に対して「新」と位置づけていると解釈される。『南京新唱』では、出版社の要請で歌は「漢字まじり」であるが、昭和15年に出版した『鹿鳴集』では全文が仮名になっている。
・八一が歌を仮名で表現したのは、「日本の歌は耳から聞くもの」という哲学が根底にある。
・八一の歌碑は、県内で19基あるが、最初のものは昭和17年に新薬師寺に建てられた。
・「おほてらのまろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもえ」の歌(『南京新唱』)の前に「唐招提寺にて」とあるので昭和25年、唐招提寺で詠まれたと思われているが、法隆寺を訪ねた時に口に出た歌で、唐招提寺はその後に訪ねたのだ。
・早稲田大学の會津八一記念館には、奈良登大路の奈良国立博物館北側にあった彼の定宿・日吉館の看板(八一の漢字の書が篆刻されたもの)が保存されているので見学をお勧めする。

奈良大学の會津八一書簡図録は、浅田先生が整理されたものです。

・奈良大学は會津八一書簡図録(千円)を出版しているので、郵送してもらうことが可能。とのことです。

[写真と文 交流グループ 藤村清彦]