第2回「記紀を愉しむ」勉強会「雄略天皇物語」参加報告

参加人数:35名
場所:南都銀行西大寺銀行クラブ
日時:8月21日18時30分~

奈良県観光ボランティアガイド連絡会会長の木村三彦さんによる「記紀を愉しむ」~記紀から古代大和の歴史の深層を見る~第2回「雄略天皇物語」勉強会が開催された。
酷暑の中、参加者は35名で、いつものように、早く来た参加者が会場のセッテングなどに自主的に携わり勉強会がスタートした。
今回は、雄略天皇は「倭の五王 武」として知られ記紀では記述も多い中で、少し変わったエピソードを交え「荒荒しさ」と「可愛らしさ」を併せ持つ雄略天皇の魅力を講義いただいた。
≪即位前記のエピソード≫
第20代安康天皇により後継と目されていた市邊押磐皇子を近江の国へ狩りに誘い、だまし討ちにした。臣下でなく、雄略天皇自らが手をくだした。古事記にも同様の記述があり雄略天皇の荒々しさ、獰猛さを際立させるエピソードである。
≪元年のエピソード≫
あるとき雄略天皇は采女であった童女君と一夜関係を持ち女児を出産した。天皇は自らの子であるかを疑い養育しなかった。あるとき、物部目大連が女子を見て雄略天皇に似ているので、この子は天皇の子供でないかと進言した。天皇はいまだ、疑義の念が強かったが、物部目大連が一夜に何回?と聞くと「7回」と答えられた。それなら妊娠してもおかしくはないとの意見を取り入れ、女子を皇女に母を妃とした。この物部目大連と雄略天皇の会話を想像すると可笑しくなる。雄略天皇のチャーミングな一面である。それにしても、7回とは、、、。
≪7年吉備没落へ≫
大きな勢力を誇った吉備勢力を弱体化して、大和政権化していく様子が説明される。
吉備下道(西側)臣前津屋が、なかなか吉備から大和に帰さなかった虚空の言葉を聞き、反乱の疑いがあるとして、物部の兵士30人を遣わして前津屋の一族70人を誅殺した。
吉備上道(東側)には田狭という有力者がおりその妻は美しいと評判であった。その妻を自分の妃にしようと雄略天皇は田狭を任那の国司へと任命する。田狭は妻を簒奪されたことを知り新羅と結んで対抗しようと画策をする。ここで天皇は田狭の子弟君をもって田狭を討つべく遣わすものの、田狭と結ぼうとした。これを知った弟君の妻は、夫を殺してしまう。ここに、吉備勢力は大きく弱体化することになる。
≪泊瀬朝倉宮≫
雄略天皇の「泊瀬朝倉宮」は、様々な説があるが、桜井市脇本に所在する「脇屋遺跡」が有力である。
発掘調査の結果、5世紀後半、6世紀後半、7世紀後半の遺構が検出されているが、5世紀後半の部分が泊瀬朝倉宮の遺構ではないかと考えられている。
≪雄略天皇陵≫
羽曳野市に天皇陵がある。円墳であるが、幕末・明治期に方墳の平塚古墳と合体して、前方後円墳であるかのように改変された。幕末当時は開化~敏達天皇までは、前方後円墳であるという学説が定説化されていたためである。

啓発グループ 岸 克行 記

<次回の予定>
第三回「蘇我氏と物部氏の争い 」
時期:9月18日 18:30~20:00
場所:南都銀行西大寺銀行クラブ