「安堵町歴史民俗資料館・中家住宅・額安寺を訪ねて」感想記

9/27(土)実施・・・参加者27名

史跡等探訪サークル主催の安堵町ウォーキングは、さわやかな秋空のなかでの実施となりました。(これで雨男返上です。とは世話人の喜びのあいさつ)
このウォークは、先の2月15日でしたが、前日の大雪のため中止となったリベンジです。
コースは、JR法隆寺駅~天理軽便鉄道跡(木戸池)~安堵町歴史民俗資料館~中家住宅(ボランティの解説)~額安寺(事務職員の解説)~近鉄平端駅で解散。この日は、土曜日のため安堵町役場はお休みで、あいにく富本憲吉の作品はみられず、その代わり、解散後平端駅近くの『筒井順慶五輪塔覆堂』を訪れました。
台風16号が温帯低気圧に変わって通り過ぎた9/27(土)は、気持ちの良い秋晴れでした。おかげで(?)参加者は定刻少し前に全員集合。しかも27名と大所帯となりました。私も一年ぶりの参加です。まずは加藤宣男さんご指導により、恒例のストレッチをしました。

ウォーキング前のストレッチ

駅前で小林誠一さんより、天理軽便鉄道について資料の配布、説明があり、駅前の旧駅舎があったと思われる交番前から出発です。小林さんの資料によると天理軽便鉄道は大正4年、新法隆寺、天理間9.1Kmで開通。6年後に別会社に路線譲渡、その翌年、一部電化、昭和になって、会社名が変わった後、近鉄に吸収され、昭和20年に法隆寺、平端間が休止、最終的には昭和27年に廃止されました。今回はその廃止区間を訪ねます。歩き始めてすぐ、用水路にレンガの橋台跡が残っており、ここに線路が通っていたことが分かります。

天理軽便鉄道のレンガの橋台跡

航空写真では、路線跡ははっきり残っている様に見えますが、駅近くは、住宅、工場が多く、歩く道は曲がりくねっています。その後、路線跡がはっきり分かる堤の横を通る農道を歩き、「木戸池」へ。農道沿いには柿や米が実りかけ、コスモスが咲いていて、のどかな秋の始まりを感じさせます。
 「木戸池」では池の中に一直線に路線跡の道が残っており、橋台跡も見られます。路線跡がはっきりしているのはこの辺りまでです。

木戸池の路線/橋台跡

次に、「安堵町歴史民俗資料館」に向かいました。途中、「太子道」を横切り、「太子腰かけ石」のある「飽波神社」に寄りました。雨乞いの安堵なもで踊りの資料が残っているらしいです。復活した安堵なもで踊りは10月第4土曜日に奉納されるらしいので、興味のある方は、どうぞ。(大和路アーカイブHPより)
「安堵町歴史民俗資料館」は、大阪府から奈良県を独立、再設置に導いた今村勤三の生家であり、代々、庄屋などを勤めた今村家より寄贈され、安堵町の歴史、伝統、民族関係資料を展示しています。

安堵町歴史民俗資料館の上田学芸員の説明

最初に上田学芸員から説明を受け、自由に邸内を見学しました。印象に残っているのは「灯芯ひき」です。安堵町は低湿地を利用し、江戸時代中頃から米の裏作として灯芯用の藺草(イグサ)が栽培されました。灯芯は藺草の皮を除いた「ずい」の部分で油をしみこませて火を灯すには最適の素材です。灯芯ひきは「ひき台」を用い、外皮を引き裂き「ずい」を引き出します。藺草の栽培は途絶えましたが、灯芯引きは寺社の灯明用などのため伝統が守られています。(以上「資料館館内ご案内」の説明より抜粋。)
見学後、お弁当を食べ、休憩しました。安堵町村役場がお休みだったため、時間が余り、休憩時間が長く取られるはずでした。ところが、突然30分早く出発することになりました。出発前に資料館玄関前で集合写真撮影。写真を撮り終えると別の場所で休んでいた人が現れるという具合で何度も撮りなおしました。ここでの最終写真が、これですが、後でまだ2名足りないことが判明しました。

当日参加のメンバー全員とは、思いきや2名たらず・・・

次に「中家住宅」に向かいました。往路は民家、大きな道路など、あまり風情を感じる道ではありません。しかし「きんもくせい」がそこここで香り、秋の訪れを感じます。
「中家住宅」は大和川北岸に残る大和地方の典型的な「環濠屋敷」です。内壕、外壕の一部とも残っており主屋その他表門、米蔵などが国指定の重要文化財です。主屋は「大和棟」です。邸内には個人で持つ菩提寺、江戸時代から伝わる「梅干」、勅使をもてなす「新座敷」、「蒸し風呂」があり、大豪邸です。

中家住宅、主屋前で全参加メンバー集合です・・・これは、全員集合です

21代当主の奥様は広い邸内の庭木の手入れからお掃除まで、お手伝いさんなしでこなされているとのことです。時々は安堵町ボランティアの方が竹藪の手入れなどを手伝われることもある様ですが、ボランティアの方は「世が世なら御姫様なのに、黙々とお一人でほうきをもってかけまわっていらっしゃる。」と仰ってました。安堵町ボランティアの方と奥様には、事細かなご説明、ありがとうございました。
額安寺では、作務衣を着た事務職員さんが説明してくださいました。額安寺は寺伝では聖徳太子の学問道場「熊凝精舎」が始まりとされ、創建当時は法隆寺に匹敵する大きさだったとのことです。その後、度重なる戦火、権力者秀吉による塔の持ち去られなどにより、衰退の一途をたどりました。先々代住職により、復興されたそうです。そのせいか、新しい建物が多く境内は白玉砂利がきれいに敷かれていました。枯山水の様に筋がつけてあります。

額安寺の本堂

額安寺には興福寺阿修羅像と同時期に作られたかわいらしい大きさの「乾漆虚空蔵菩薩半跏像」、インド初代ネール首相から手渡しされた「仏舎利」等がそれぞれ別々の建物に安置されています。境内には「宝篋印塔」(ほうきょういんとう)もあります。額安寺の前の鏡池(明星池)の池島から移されたものらしいです。宝篋印塔の説明をしていただいた当メンバーの豊田敏雄さん、加藤宣男さんありがとうございました。

額安寺の宝篋印塔

額安寺を後にし、少し歩いた所には忍性菩薩等8基の五輪塔が建っています。ここは「鎌倉墓」とも呼ばれる額安寺の五輪塔です。

額安寺の五輪塔

額田部窯跡に行きました。窯跡は小屋で覆われています。板の隙間から中を窺っていると、中に人影が。なんと小屋の戸は開けることが出来て、人が入れたのです。皆で中に入り、間近で見学させてもらいました。額安寺の瓦などを焼いた様です。

額田部窯跡

最後に近鉄平端の駅まで歩き、ここで解散しました。
その後、有志で、ちかくにある筒井順慶の五輪塔覆堂に行きました。覆堂はソムリエの本に載っていて、何故か印象的だったので、実物を拝見したいと思っていました。思ったよりりっぱで大きい建物でした。ただ、側面が割と薄い板の様に見えたので、江戸時代初期(戦国時代?)から何百年も経っているのに良くもっているな、途中で改修でもしたのかな、と思いました。

筒井順慶の五輪塔覆堂

JR法隆寺駅から解散場所の近鉄平端駅まで、歩いた距離は8.8kmでした。私の万歩計で歩幅60cmでの計算です。オプションの覆堂往復を含めると9.5km。平坦な土地で、皆さんと一緒に歩いたので、あまり疲れることもなく、歩き切ることができました。民家の中にある場所が多かったので、少し場所がわかりにくかったです。 きっと、ひとりでは見学し切ることが出来なかったと思います。準備、下見をしてくださった小林俊夫さんその他の皆さん、一緒に歩いて下さったメンバーの皆さんに感謝します。

文:歴史探訪G 史跡等探訪サークル 清水千津子   写真:同 小林俊夫