東京都内で奈良を感じる企画展

千代田線千駄木駅から、団子坂を200mほど登ったところに文京区立森鷗外記念館があります。
同館コレクション展「奈良、京都の鷗外―今日オクラガアキマシタ。」が、展示室2で開催中です。 2月7日(日)まで。 開館時間や交通案内など詳細は記念館HPでご確認くださいませ。

展示会チラシ

展示物は撮影不可でしたので、展覧会のチラシを添え、奈良関連の展示物を報告します。
受付をすませ、エントランスの鷗外の胸像を見て階段を下ってまずは展示室1へ。
ここでは鷗外の生涯を紹介する内容でした。
森鷗外(1862-1922)は現在の島根県津和野町に、津和野藩の御典医を務めた森家の長男として生まれ、10歳で上京。
東京医学校予科(現在の東京大学医学部)に入学。在学中には和歌も学んでいたらしい。
卒業後は陸軍軍医となり、ドイツ留学を経験。日清戦争、日露戦争にも出征。
帰国後は軍医をしながら、翻訳や小説・詩歌などを創作した明治・大正期の文豪。
小説『舞姫』、翻訳『即興詩人』、歴史小説『高瀬舟』など代表作をあげてみると文芸活動の幅広さがわかります。
奈良との関わりを感じたことは…
万葉集の研究者で知られる佐佐木信綱(1872-1963)と親交があり、鷗外が日露戦争へ出征する際には万葉集の本を贈ったのだそう。書簡や信綱揮毫の書幅などが展示されていました。
日露戦争帰国後に鷗外が歌人を自宅に招き歌会を催した際には、橋渡し役を勤めたのも信綱。信綱をはじめ、与謝野鉄幹、石川啄木、北原白秋、上田敏、斉藤茂吉などが参加したのだそう…幅広い交際をうかがい知ることができます。このときの歌会はのちに観潮楼歌会と呼ばれるようになりました。
自宅2階から東京湾が遠くに眺められたため、鷗外が自宅を「観潮楼」と名付け、多くの文人が集った社交場でもあったそうです。この記念館は鷗外旧居「観潮楼」跡地に建てられたもの。
晩年の鷗外は奈良との関わりが深くなっていきます。
1916(大正5)年に陸軍を退職。
1917(大正6)年12月、55才のときに帝室博物館総長兼図書頭となり、翌年から大正10年まで、奈良を訪れて正倉院曝涼に立ちあいました。
このときの宝物の調査などの公務や公務の合間に南都社寺を巡礼したことが、日記『委蛇録』に書かれ、「奈良五十首」はこの4年間に歌われたもの。1首をご紹介します。
 夢の國燃ゆべきものの燃えぬ國木の校倉のとはに立つ國

ときは、明治の廃仏毀釈による社寺衰退の跡が感じられるころの正倉院開封だったこと想像してみる…夢の国だったんだろうなぁ。
他にもいくつか紹介されています。残りの歌や歌意などは、平山城児著『鷗外「奈良五十首」を読む』(中公文庫)に詳しくあります。
日記や「奈良五十首」が発表された『明星』大正11年1月号など展示の一部はデジタルコンテツで見ることが可能でした。漢文で書かれた日記には正倉院に立ちあった人物の名があったりします。どんな人物が入倉したのか探してみるのも面白いかもしれません。
出張中に宿泊した奈良帝室博物館敷地内の官舎の写真、留守番をする子供たち家族に宛てた当時の絵はがきなどもあり、大正初期の奈良を鷗外と旅した気分を味わうことができました。
楽しい企画展をありがとうございました。