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第59回へ                  第60回 2013年12月28日掲載                  第61回へ >
岡倉天心と大蔵寺弁事堂 ―― 老朽激しく…修復ご協力を
 
 今年は岡倉天心(本名覚三(かくぞう))の生誕150年、没後100年の年だったので、さまざまな記念事業が行われた。
 岡倉天心は福井藩士の子として横浜に生まれ、東京外国語学校、東京大学で学んだ後、17歳で文部省に入省した。
 西欧近代化が猛烈な勢いで進んだ明治という時代に日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政官・美術運動家として近代日本美術の発展に大きな功績を残した。日本画革新運動や古美術品の保存、東京美術学校・日本美術院の創立、ボストン美術館の中国・日本美術部長就任など活動ぶりには目を見張る。
 また英文の著作「The Book of Tea(茶の本)」などを通じ、東洋や日本の美術・文化を欧米に積極的に紹介するなど、国際的な視野に立って活躍した。
  晩年は茨城県五浦(いづら)(現在の北茨城市五浦)で、横山大観ら若手作家を指導し、新たな日本画の創造をめざした。
 平成23年の東日本大震災による大津波で天心が五浦に建設した「六角堂」は土台だけ残して流失したが、関係者の努力もあり、24年4月に修復・再建された。


岡倉天心ゆかりの大蔵寺「弁事堂」=宇陀市大宇陀栗野

 ※   ※   ※  天心ゆかりの建物で創建当時の姿を唯一残しているのが、大蔵寺(おおくらじ)(宇陀市大宇陀栗野)の「弁事堂(べんじどう)」だ。四畳半の茶室の風情を漂わす茅葺(かやぶ)き屋根・寄棟造りの小堂で、堂内には鎌倉時代の地蔵菩薩(県指定文化財)が祭られている。お堂の名は、地蔵菩薩を弁事明王ともいうことにちなむ。
 大蔵寺は用明天皇の勅願で聖徳太子が創建し、のち弘法大師が唐から帰朝後、初めて真言宗の道場としたという古刹で「元高野」とも呼ばれる。随筆家・白洲正子の「かくれ里」で紹介され有名になった。天心は当時住職だった丸山貫長の仏弟子として仏教復興運動に参画していたことから、お堂を寄進した。
 ちなみに大蔵寺は観光寺院ではなく、檀家(だんか)・信徒のための信仰の寺。祈願や法事など仏事で予約した人以外の入山はお断りしている。
 東京美術学校の開設準備に携わっていた若き文部官僚・天心は、明治21年5月から始まった関西の古社寺宝物調査の途中、室生寺住職だった丸山貫長に出会い「生きた仏教精神のモデル」と感得し、求道(ぐどう)の師と仰いだ。同寺の真言実行院で、アーネスト・フェノロサと2人で「灌頂(かんじょう)」の儀式を受けた。
 フェノロサは、天心とともに法隆寺夢殿の秘仏・救世観音像を開扉させた有名なエピソードを持つ。聖林寺(桜井市)の秘仏だった十一面観音像の封印を解いたのも彼だ。
 丸山貫長は長野県安曇野に生まれ、桜井市の長谷寺に入って修行した。その後室生寺住職となり、廃仏毀釈(きしゃく)によって荒廃した伽藍(がらん)諸仏の修復を進めた。さらに同寺で仏教復興運動を開始し、その運動が軌道に乗った時期に天心と出会った。
 丸山は大蔵寺へ隠棲したが、明治40年、そこへ天心夫妻が150円を施入して弁事堂を建てた。天心は当時、ボストン美術館中国・日本美術部長として、日本とボストンを往復していた。
 ※   ※   ※  現在、弁事堂は老朽が激しく緊急の修復が必要となっているため、岡倉天心研究会が生誕150周年事業として「弁事堂修復『鵬の会』」の名で募金を呼びかけている。
 今年は震災復興支援も兼ね、映画「天心」が制作・公開された。東京美術学校を追われた天心の五浦時代を中心に、愛弟子(まなでし)横山大観から見た天心像を描いている。
 奈良の文化財保存の恩人でもある岡倉天心の人と思想を振り返っていただきたい。
  (NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄)
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