なら再発見
第60回へ                  第61回 2014年1月11日掲載                  第62回へ >
農業指導者・中村直三 ―― 「奈良段階」の基礎築く
 
 中村直三(なおぞう)をご存じだろうか。群馬の船津伝次平(でんじべえ)、香川の奈良専二とともに「明治三老農」の1人に数えられる農業指導者だ。彼は農事改良に生涯を捧げた。
 直三は文政2(1819)年、山辺郡永原村(現在の天理市)に生まれた。10代の後半で世にいう「天保の飢饉(ききん)」を目の当たりにし、農事改良の必要性を痛感する。
 商品経済の進展で当時、奈良盆地では米の作付けを減らし、綿加工業などの農業外収入を得て米を購入し、生活する農民が増えていた。いわゆる「買食層(かいぐいそう)」である。そこに洪水や冷害などによる飢饉が襲い、米が極端に不足し、高騰した。
 大和の各地でも打ちこわしや騒動が発生する。東大寺南大門の軒下では、毎日8、9人が死んでいたという記録もあるそうだ。永原村でも百姓の集団的な直訴行動「強訴(ごうそ)」が発生しかねない状況となったが、直三は村役人とともにこれを制止した。
 直三は、農業を怠ったからこのような事態を招いたのだと痛感した。農事改良を行い「命の親」である米を増産することこそが大切であると説き、自らその推進の先頭に立った。


荒川清澄著「老農中村直三」の復刻版

 文久2(1862)年に刊行した「勧農微志(かんのうびし)」には堆肥小屋を作り、池の底土、藁(わら)灰、屎尿(しにょう)などを肥料として備え置き、適時に用いるべきだと書いている。稲の品種改良では、諸国を歩いて優れた種籾(たねもみ)を得て試作田で育て、多くの農民に贈り、感謝されている。
 直三は「勧農微志」のほか「大和穂」「伊勢錦」など農事に関する多くの指導書を著した。農民が関心を持って読めるように、漢字にはフリガナをふり、絵や図を入れ、米の単位面積当たりの収量を番付の形式で示し、チラシの形で配布するなど、さまざまな工夫をこらした。


県庁東交差点北東に建つ「中村直三農功之碑」=奈良市
 直三は大和のほとんどの藩に招かれて農事改良を指導した。郡山藩からは「藩士にならないか」と打診されたが、不自由さを嫌い、これを固辞したというエピソードが残っている。
 廃藩置県後には奈良県勧業下用掛(かようがかり)などの役職について積極的な活動を展開する。名声は全国に鳴り響き、活動の場は秋田、宮城から石川、福井、南は大分にまで広がった。
 かつて「奈良段階」という言葉があった。奈良県は明治後期から昭和初期まで米の単位面積当たりの収量が全国一で、それが奈良段階と呼ばれた。その基礎は間違いなく直三が築いたものだ。
 直三は明治15(1882)年、コレラにより急逝した。42年には直三の生涯と功績を紹介した荒川清澄著「老農中村直三」が刊行された。奈良県庁東交差点北東に建つ「中村直三農功之碑」が、今も彼の功績を物語っている

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会専務理事 鉄田憲男)
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