なら再発見
第67回へ                  第68回 2014年3月8日掲載                  第69回へ >
浦上切支丹流配記念碑 ―― 信仰守り通した人々の証し
 
 「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」は、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産登録を目指す文化遺産。構成遺産の中心は国宝の大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)(長崎市)で、奈良とはゆかりがある。それが、カトリック大和郡山教会(大和郡山市城南町)の「浦上切支丹流配(うらがみきりしたんるはい)記念碑」だ。
 発端は、江戸幕府にキリスト教が禁止されていた幕末の元治元(1864)年にさかのぼる。開港された長崎に居留するフランス人のため、カトリックの大浦天主堂が建てられた。翌年、浦上村の住民が天主堂のプティジャン神父を訪れ、キリスト教信者であることを告げた。これが有名な「長崎の信徒の発見」で、ローマ法王にも報告された。それ以後、周辺の村の隠れていた信者が続々と訪れ、ひそかに教えを求めた。
 ところが2年後、浦上村の信徒たちが仏式の葬儀を拒否したことで、「隠れキリシタン」の存在が明るみに出て捕縛され、激しい拷問を受ける。
 明治政府は慶応4(1868)年、「五榜(ごぼう)の掲示」で江戸時代からのキリスト教禁止を維持し、捕縛した信徒の流罪を決定した。この事件を「浦上四番(しばん)崩れ」という。キリスト教の布教以来、4番目の大弾圧という意味だ。浦上村の全村民約3400人が、名古屋以西十万石以上の20藩へ分かれて配流された。
 そのうち86人(戸主10人と婦女子76人)が郡山藩に預けられた。婦女子たちは翌年1月、浦上を出て着の身着のままの姿で寒風の中を歩かされ、乗船して海路、大阪に上陸。そこから腰に縄をかけられ、陸路で大和郡山まで連れてこられた。乳飲み子を抱えた母親もいたという。
 先に捕らえられた戸主たちは、他藩預けの者と一緒に汽船で大阪に送られ、一足先に郡山に着いていた。
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カトリック大和郡山教会にある「浦上切支丹流配記念碑」=大和郡山市

 家族は雲幻寺(うんげんじ)(現在の良玄禅寺(りょうげんぜんじ)・同市茶町)で再会する。その後収容先は移っていくが、藩主・柳沢保申(やすのぶ)の寛大なおもんぱかりで強制労働もなく、生活面での不自由はなかった。ただ役人からは執拗(しつよう)に改宗を迫られ続けた。
 その後、政府の実情調査で取り扱いが甘いと指摘されてから待遇が悪化。真夏の炎天下の重労働にも従事させられていく。
 成年男子は、天川村にあった鉱山の採掘に従事させられた。食物は不足し、雪の降る寒さでも炭火は支給されず、特に老人や病人は苦しんだ。12〜20歳の男女は両親から離され、奈良の大仏殿付近で紙製品作りに使われた。
 キリスト教信者への迫害は、諸外国から繰り返し抗議を受けた。5年後、日本政府の遣欧使節団はキリスト教信者への弾圧が不平等条約改正の障害になっていることに驚き、政府に知らせた。ようやく政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、信徒たちを釈放した。配流者のうち約1千人が改宗し、約660人が命を落としていた。
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カトリック大和郡山教会の建物
 信仰を守って生き残った信徒たちは故郷に帰った後、配流の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くし、浦上教会を建てた。
 郡山に預けられた信徒からは1人も改宗者は出なかったそうだ。しかし配流中に一部信徒が亡くなり、墓碑が雲幻寺に建てられた。
 墓碑は昭和44年にカトリック大和郡山教会に移され、記念碑とされた。扁平(へんぺい)の自然石に漢字で洗礼名と氏名が刻まれ、毎年11月3日には追悼ミサが行われている。
 故郷から遠く離れた地に移されても、執拗に改宗を迫られても、結束固く信仰を守り通した浦上村の人々に敬意を表したい。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄)
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