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薬園八幡神社 ―― 屋根、狛犬・・・“不思議の園”
 
 薬園(やくおん)八幡神社(大和郡山市材木町)は、『続日本紀(しょくにほんぎ)』に由緒が記された古社だ。創建は、大仏鋳造の守護神として、宇佐(うさ)神宮(大分県)から八幡神が勧請(かんじょう)された天平勝宝元(749)年。奈良に入った八幡神は平城京の南、薬草園のあった梨原(なしはら)の宮に建てられた新殿に迎えられ、7日の悔過行(けかぎょう)を経て東大寺に入った。
 このとき八幡神は分霊(ぶんれい)されて梨原で祀られ、後に現在お旅所となっている魚町に移り、延徳3(1491)年に現在の材木町に鎮座することになったと伝わる。

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 薬園八幡神社では歴史の謎を楽しみたい。まず八幡大神が留まった「梨原」の地はどこか。大和川―佐保川を船で上って来たとすれば、羅城門(らじょうもん)に近い「奈良口(ならぐち)」付近で下船し、東へ進んで「神殿(こどの)」あたりから北上して東大寺を目指したのではなかろうか。神殿という地名から梨原の神殿の地が想像される。
 境内で面白いのは建物の配置と様式だ。北側に鳥居と表門がある。その先の中央が通路になった割拝殿(わりはいでん)を抜けて左に90度向きを変えると、祭儀を行う幣殿(へいでん)と本殿が連なる。幣殿と本殿が西を向くのは珍しいが、これは郡山城を護るためか。


薬園八幡神社の唐破風の付いた幣殿

 八幡宮の総本宮宇佐神宮は南面で流造(ながれづくり)だが、当社本殿は春日造(かすがづくり)で、檜皮葺(ひわだぶき)の屋根の棟(むね)には十六弁菊花紋が付いている。また幣殿と拝殿の屋根に唐破風(からはふ)がのる。唐破風というのは、中央部を凸形に、両端部を凹形の曲線状にした玄関の屋根の形である。1社に2つも唐破風があるのも珍しい。
 次は燈籠に注目したい。表門外の一対の石燈籠の文字は、池大雅(いけのたいが)に絵を教えたという文人画家柳里恭(りゅうりきょう)(柳沢淇園(やなぎさわきえん))の筆になるものだ。表門を入った左側の石燈籠には、「安政元(1854)年6月14日夜発生した伊賀上野を震源とする大地震(おおじしん)から逃れた大坂と郡山の商人たちが、神恩(しんおん)に感謝して寄進した」旨が刻まれており当時の世情を伝える貴重な記録だ。
 その隣には「高良(こうら)大明神」の石燈籠が立っており境内には高良社が祀られている。これは佐賀県の高良大社の神を表す。なぜ九州の宇佐や高良の神々が大きな力をもつと評価されて奈良へ招かれたのか。興味ある向きには古田武彦(ふるたたけひこ)氏の著作集が参考になる。


左頬にひげの穴がある雄の狛犬

 さらに幣殿の西側には珍しい南部鋳物(なんぶいもの)製の燈籠が一基ある。文政4(1821)年のもので、龍が浮き彫りにされている。基礎は石で八角形に組まれている。八角の意匠は寺社ではめったに使われないが、この形は皇室に縁(ゆかり)があるからだろう。この燈籠が先の大戦中の金属供出を免れたのはこのあたりに理由がありそうだ、と平田宮司は推測する。

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 見逃がせないのは、拝殿の入り口にある天明元(1781)年銘のある一対の狛犬(こまいぬ)。わが国で2番目に古いもので、向かって右が雌、左の口を閉じ頭頂に一角を有するのが雄、よく見ると共に雌雄のしるしをつけている極(きわ)めて珍しいものだ。雄の両頬には穴があり、右頬の穴には緑青(ろくしょう)が詰まっている。銅のヒゲが埋め込まれていた痕(あと)のようだ。
 薬園八幡神社に残された記録や文字、形は現代の私たちに何を伝えようとしているのだろうか。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 藤村清彦)

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