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葛城二十八宿 第二十品石寺址 ―― 山の宗教 蘇れ修験の道
 
 「葛城二十八宿」をご存じだろうか。葛城修験道の開祖である7世紀の役小角(えんのおづぬ)(役行者)が法華経を埋納した28の経塚を巡る修行の道だ。
 かつては大阪府と和歌山県の境を東西に走る和泉山脈と、奈良県と大阪府の境を南北に連なる金剛山・葛城山を含む広い範囲を葛城山と呼んだので、これらの山に入って修行する修験道を葛城修験道と呼ぶ。宿(しゅく)というのは、修験道の霊地のことだ。
 修験道とは日本固有の「山の宗教」であり、山そのものがご神体、ご本尊だ。山岳信仰を核とした神仏習合の実践的な宗教と言ってよいだろう。修験道の実践者を山伏と言い、山伏は山に入って修行し、里に下りて庶民の救済に努めた。
 修験道で重要視される法華経は8巻28品から構成されており、「品」(ほん)はまとまりを示す「章」に当たる。各経塚は法華経の各品になぞらえて順番が付けられている。和歌山県の友ケ島を第一番目序品(じょほん)として紀ノ川を右手に見て和泉山脈を東に進み、五條あたりから金剛山・葛城山に沿って北上、大和川の亀ノ瀬を終点の二十八品とする。
 逆L字の道筋は、海で始まり川で終わる不思議を秘め、古代、海の民が内陸の葛城の地に入ってきた道筋をたどるようでもあり興味が尽きない。



金剛山の東山腹にある葛城二十八宿の第二十品石寺址

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 平成16年に「紀伊山地の霊場と参詣道」が、平成25年には「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」がユネスコの世界文化遺産に登録され、神仏習合の信仰や修験道が見直され始めている。ここで改めて明治以降、修験道とそれを民間で支えてきた山伏たちが苦難の歴史を経てきたことを振り返ってみたい。
 明治元(1868)年の神仏判然令、その後民間に吹き荒れた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動による仏教排斥と寺院の破壊、明治5年の修験道廃止令により、修験道は大きな影響を受けた。十数万人はいたという僧籍を持たずに活動してきた在家(ざいけ)の山伏は激減した。
 この修行の道も途絶えかけたが、犬鳴山七宝瀧寺(いぬなきさんしっぽうりゅうじ)(大阪府泉佐野市)と泉州山岳会の活動により復活した。一部は「ダイヤモンドトレイル」として、ハイカーにもなじみが深い。

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 奈良県には7つの宿があり、県内2番目の第二十品石寺址は金剛山の東山腹、標高710メートル程度の所にある。御所市のコミュニティーバスに乗り、西佐味(にしさび)で下車。登山口に近い大川杉(県指定天然記念物)を目指す。


愛好家に「大和で最も風雅」とされる道標。「右かうや 左よしの道」との文字が刻まれている

 大川杉から山麓の集落を目指すと、大弁財天の大杉が見えてくる。杉林の林道に入れば右手に、石造物愛好家の間で「大和で最も風雅な道標」と評判の道標が目に飛び込んでくる。自然石に上が三角、下が四角の枠が彫られ、文字が刻まれている。この枠の形は、修験道で使われる祈祷(きとう)札や板碑(いたび)から来ているようだ。
 しばらくすると高宮廃寺と石寺址への分岐点に到着。この分岐を左にとって約30分、目指す石寺址に到着。削平(さくへい)された土地に高さ2メートルほどの白みを帯びた巨石が、地山から削り出されたように屹立(きつりつ)している。石寺は鎌倉時代には「金剛七坊」の一つであったそうだが、それをしのぶものはない。ここから標高982メートルの伏見峠へは、30分程度の登りで金剛山頂も近い。
 前述の分岐点を右に行くと、謎の高宮廃寺に着く。高宮廃寺は石寺の東500メートル、標高550メートルの地点にある。石寺もしくは巨石と高宮寺は、神仏習合の古代にあっては、信仰面では一体のものであったのではないかと想像が膨らむ。古代の歴史を修験道から光を当てると違った面が見えてきそうだ。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 藤村清彦)

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