< 第109回へ 第110回 2015年02月07日掲載 第111回へ > |
松尾道 ―― 日本最古の厄除霊場 松尾寺 |
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奈良まほろばソムリエの会のガイド活動で法隆寺に来るたびに、夢殿のある東院伽藍(がらん)入り口横に建っている「左松尾道」の石標が気になっていた
斑鳩から松尾寺(大和郡山市山田町)を経て平群(へぐり)谷へ下る道だが、歩いたことがない。新年の初ウオーキングは、この松尾道に決めた。
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朝の法隆寺は観光客の姿も見られず、寒いが清々(すがすが)しい気分にさせてくれる。昨秋に建立された会津八一の歌碑「ちとせあまり みたびめぐれる ももとせを ひとひのごとく たてるこのたふ」に詠われた五重塔が、冬晴れの空に輝き、その存在感を誇示している。
東院伽藍の横を通りながら、夢殿に安置されている救世(くせ)観音、行信(ぎょうしん)僧都や道詮(どうせん)律師の諸像が心に浮かんだ。
後ろにそびえる五重塔を背にして、冬枯れの田んぼ沿いの道をたどる。池名を見て思わず吹き出した「毛無池」よりゴルフ場を横切り、参道に立つ丁石を数えながら松尾寺への尾根道を登っていく。
天武天皇皇子の舎人(とねり)親王が主導し編纂(へんさん)した日本書紀の完成と、42才の厄除けを祈願して、718年に建立されたのが松尾寺だ。日本最古の厄除霊場として信仰を集めている。
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日本最古の厄除霊場・松尾寺本堂=大和郡山市
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舎人親王が参詣祈願の折、瑞雲(ずいうん)たなびき千手千眼(せんじゅせんげん)観世音菩薩が天降られたという「舎人親王伏し拝みの伝承地」を通り、境内に入った。
社務所で松尾寺独自の厄除け早見表を見て、「57、61、73、85才」の高年者にも厄、それも大厄(おおやく)があることを知った。今年は私の大厄の年だ。早速、本堂に参拝し厄除け祈願を済ませ、舎人親王像に「今年も日本書紀のお世話になります」と拝礼した。
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白山神社の道詮律師供養塔=平群町福貴
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平群町へは白石畑(しらいしばた)峠を経て下ることにした。農道や枯れ葉舞う雑木林の中へ続く小道は下るほどに傾斜を増し、落ち葉に足を取られて何度か滑りそうになる。本当に松尾道なのかと不審に思ったとき、嬉しや目の前に「松尾道」の石標があり、ほどなく平群の集落へ下りた。
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平群町には長屋王墓と妃の吉備(きび)内親王墓がある。長屋王は天武天皇の孫で舎人親王とともに皇親政治を目指すが、藤原氏の陰謀で一族もろとも死に追いやられた。「長屋王の変」である。糾問(きゅうもん)の先頭に立ったのが舎人親王で、変後は藤原氏に協力した。
柿本人麻呂歌集に舎人皇子に奉げられた「冬こもり 春へを恋ひて 植えし木の 実になる時を 片待つ我ぞ」の歌がある。藤原氏権勢下での忍耐の日々、舎人親王や彼の幼子(おさなご)の大成を祈る歌だろうか。
後年、その幼子の大炊王(おおいおう)は47代淳仁天皇として即位した。奈良市窪之荘にある黄金塚(こがねづか)陵墓参考地が舎人親王墓の候補地だったが、数年前の発掘調査で別人の墓と判明した。日本書紀編纂1300年にあたる2020年までに本当の墓が見つかれば、書紀編纂の最大功労者への供養と顕彰になるだろう。
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平群駅前に「白山神社・道詮律師の墓」への案内板があった。そんなに遠くはないので立ち寄った。白山神社(平群町福貴)は聖徳太子を尊崇し夢殿を再建した道詮律師の隠居寺として栄えた福貴寺(ふきでら)跡に建つ。
境内背後の小高い場所に道詮律師の供養塔が建ち、季節の花が供えられていた。老身に強い意志を感じさせる道詮律師像の尊顔が再び思い出された。駅へ引き返す道端にも「松尾道」の石標があった。この辺も松尾道だ。
(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 田原敏明)
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