なら再発見
第19回へ                  第20回 2013年3月16日掲載                  第21回へ >
桜井・安倍文殊院 ―― 知恵の菩薩に合格祈願
 桜井市の安倍文殊院の本尊は、快慶の代表作ともいわれる木造騎獅文殊菩薩(きしもんじゅぼさつ)像。京都府宮津市の切戸(きれど)文殊、山形県高畠町の亀岡文殊と並び「日本三文殊」に数えられる。
 文化審議会が、日本最大のこの文殊菩薩像を国宝指定するよう文部科学大臣に答申し、話題となっている。
 知恵の仏、文殊菩薩を本尊とする安倍文殊院は、森羅万象を解明する陰陽道(おんみょうどう)の祖、安倍晴明(あべのせいめい)にも縁があり、「学問の仏さん」「受験の文殊さん」と、若い人にも人気がある。

                        * * *

 前身となる安倍寺は大化の改新の功労者、安倍倉梯麻呂(くらはしまろ)創建といわれ、境内は約200メートル四方の大寺だった。鎌倉時代に戦乱で焼き払われ、1234年に安倍寺別所だった現在地に寺院を移したとされる。
 旧安倍寺跡は、安倍文殊院本堂から約300メートル西南の場所で、史跡公園として保存されている。安倍寺が移転された別所には、すでに文殊菩薩が祀られていた。
 文殊菩薩は、1203年の快慶作との墨書きが体内にあり、移転より早く現在地に祀られていたとみられる。文殊菩薩のもとに安倍寺の全体が集まり、境内が決まったのだろう。
      


 安倍寺の歴史は、文殊菩薩を抜きには語れない。その後も寺院は、戦乱で焼かれるなど幾多の試練があったが、文殊菩薩は守られた。
 明治初期の神仏分離や廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の激動も経た。
 神仏分離で国の保護が無くなった寺院は、寺領を失い収入も絶たれて廃仏の嵐にさらされることになった。
 そのため、寺院にとって存続には大きな決断と努力が求められた。このとき、安倍寺は「文殊菩薩を守り、寺名を安倍文殊院と変える」と決断し、嵐を乗り切ることを決めた。
 神社を選択した桜井市の妙楽寺(談山神社)からは釈迦如来三尊像を引き取り、廃寺となる大御輪寺(大神神社の神宮寺)からは客殿の移設も行った。
 それが現在、釈迦堂に祀られる釈迦如来三尊像であり、また客殿は県の重要文化財の指定も受けて庫裡(くり)に使われている。

      * * *
        
安倍文殊院の本堂にある文殊菩薩像=桜井市(安倍文殊院提供)

 安倍晴明ゆかりの寺としても有名だ。陰陽道を駆使して、国政のすべてを占った晴明はこの地で誕生したとの説があり、御神像を祀る晴明堂などもある。
 文殊菩薩の知恵と晴明の洞察力は、受験生があやかりたい力だろう。
 入学試験にとどまらず、国家試験などの合格を祈願する参拝者で季節を問わずにぎわい、多くの合格絵馬が境内に奉納されている。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 雑賀耕三郎)
なら再発見トップページへ
COPYRIGHT (C) 奈良まほろばソムリエの会 ALL RIGHTS RESERVED.