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第41回へ                  第42回 2013年8月24日掲載                  第43回へ >
天誅組決起150年 ―― 夢破れた「皇軍御先鋒」
 
 今年は「天誅(てんちゅう)組」決起150年の記念すべき年である。
 文久3(1863)年8月13日(旧暦)、決起の大義名分となった「大和行幸(ぎょうこう)の詔(みことのり)」が下った。孝明天皇が春日大社、神武天皇陵や伊勢神宮を参拝し、攘夷を祈願するというものだ。尊皇攘夷派は天皇自らが兵を指揮して攘夷を行うことで武力倒幕に持ち込もうとした。
 天誅組は大和行幸の尖兵(せんぺい)(皇軍御先鋒(ごせんぽう))として五條で兵を挙げた。南大和の幕府領を平定し、義兵を集めて行幸を迎えるため、当地を支配していた五條代官所を討とうと考えた。
 天誅組の主将は前侍従の中山忠光、総裁は土佐藩の庄屋出身の吉村虎太郎ら3人。ほかに河内の大地主・水郡善之祐(にごりぜんのすけ)、歌人で国学者の伴林光平らがいた。
 8月17日、約50名の天誅組は大坂から千早峠を越えて五條に入り、午後4時ごろ、代官所を襲撃し、代官・鈴木源内らを殺害。本陣を五條の桜井寺に置き、五條新政府を樹立した。
 ところが翌日、大変なことが起きた。薩摩・会津藩などの公武合体派が、長州藩を中心とした急進的な尊皇攘夷派を京都から追放したのだ。世にいう「8月18日の政変」。これにより大和行幸は中止され、天誅組は皇軍から一夜にして「賊軍」に転落した。


天誅組の本陣が置かれた桜井寺で営まれた「150回忌」慰霊祭=五條市
 その後、彼らは諸藩によって編成された追討軍により、猛攻撃を受けた。抵抗もむなしく9月24日、東吉野村で待ち構える追討軍と激突の末、多くの隊士が戦死し、天誅組は壊滅した。
 敗走の様子は、伴林光平の《雲を踏み嵐を攀(よじ)て御(み)熊野の果無し山の果ても見しかな》というすさまじい歌に詠(よ)まれている。  しかし40日にわたる抵抗は幕府の弱体化を世に示し、彼らがめざした倒幕維新は4年後に実現。天誅組の挙兵は「明治維新の先駆け」と呼ばれることになる。
 新暦と旧暦の違いはあるが、今年8月17日の天誅組挙兵の日、本陣が置かれた桜井寺で「150回忌」慰霊祭が営まれた。天誅組隊士と五條代官所役人たちの合同慰霊法要である。
 私は「維新の魁(さきがけ)・天誅組」保存伝承・顕彰推進協議会の田中修司会長から誘いを受けて参列した。列席者には五條市、東吉野村、安堵町など天誅組ゆかりの市町村関係者や顕彰活動の従事者などにまじり、天誅組河内勢の首領・水郡善之祐の子孫、水郡庸隆(つねたか)氏の姿もあった。
 五條市には鈴木代官など代官所関係者の墓、東吉野村などには吉村虎太郎はじめ天誅組隊士の墓があるが、いずれも住民により花などが供えられ、今も手厚く守られていることに驚く。
 新しい日本の建設のため命をかけて立ち上がった若き隊士たち。そして温厚な性格で住民から慕われていたという鈴木代官。150年のときを経て敵味方が同じ寺で霊を慰められ、鎮められたことには感慨深いものがある。
 天誅組決起150年の今年は県内外で様々なイベントが行われている。3月には関連本の決定版ともいうべき舟久保藍(ふなくぼあい)著「実録 天誅組の変」(淡交社)が刊行され、6月には東吉野村の肝いりで村内の西善から饅頭(まんじゅう)「さきがけ」も発売された。
 天誅組についてはあまり広く知られているとはいえないし、無謀ともいえる行動への誤解もある。この機会に、ぜひ崇高な理念で動いた彼らへの理解を深めていただきたいと思う。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会専務理事 鉄田憲男)
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