< 第50回へ 第51回 2013年10月26日掲載 第52回へ > |
都祁白石の國津神社 ―― 古祭に残る 明治の文明開化 |
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奈良盆地と伊賀盆地に挟まれた高原は、かつては「東山中(ひがしさんちゅう)」と呼ばれたが、今では「大和高原」「笠置山地」だ。
奈良盆地より標高が平坦部で300メートルほど高いので、夏冬とも奈良の市街地より平均気温が3度ほど低い。5月でも霜が降(お)りるので、ストーブが手放せない。高原を流れる川は、ほとんどが西の奈良盆地には流れ込まず、北や東へ流れて木津川水系を形成するのも地理上の特色だ。
ここは、平成17年に奈良市に編入されるまでは都祁村(つげむら)で、奈良盆地のほとんどが湖沼であった時代から拓(ひら)けた古い歴史を有している。
都祁白石町の國津(くにつ)神社は、奈良市の東南部、名阪国道「針テラス」のすぐ南に鎮座する。毎年11月3日に國津神社の古祭(ふるまつり)が執り行われる。興味深いのは、祭のお世話をされる宮座衆の装束と「スコ」と呼ばれる神様への供え物だ。
スコは、節を削った3本の淡竹(はちく)で組んだ台の上を、10本の竹串に餅と大根を交互に刺したものと赤、白、黄の菊花で飾る。頂きには松・梅・楓(かえで)の枝がとりつけられ、とても美しい。
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奈良市都祁白石町の田園風景
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12人の宮座衆は午後から、頭屋(とうや)の家から神社まで、3基のスコを担いで「チョウサヤ、チョウサヤ」と唱えながらお渡りをする。神主を除く宮座衆の装束は、山高帽に黒紋付羽織袴(はかま)だ。明治の文明開化の心意気が、古くからの祭りにも継承され、息づいているのだろう。
福井久郎(ひさお)さん(67)は、地元で瓦葺き業を営みながら「大和高原文化の会」で地域おこし活動に奔走し、今年からは宮座衆を務めている。
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毎年11月3日に執り行われる國津神社の古祭=奈良市都祁白石町
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福井さんは「氏子は小餅を2升、重箱に入れて神前にお供えします。地元では『卯(う)の日には餅を搗(つ)くな』と言いますので、その日を避けて柔らかい餅を供えます」と説明。「祭りの後は餅とミカン、紅白のリボンを結んだ5円玉を撒(ま)く『御供(ごく)まき』があります。氏子はそれを楽しみに、境内に敷かれた敷物の上で正座して祭事が終わるまで待ち、撒かれた餅をいただいて帰ります。ぜひお参りに来てください」と話す。
「卯の日には餅を搗くな」という戒めの由来は不明だが、この地に深く関わる大神(おおみわ)神社で毎月営まれる「卯の日祭(さい)」をはばかっているのだろうか。
國津神社で、もうひとつ見落とせないのは「やすんば」と呼ばれる4ヵ所の藪(やぶ)だ。同社の東にある野々神岳麓に鎮座し、大神神社奥ノ院ともいわれる雄神(おがみ)神社との間にある。
大神神社と同じく本殿がない雄神神社の神様が國津神社にお渡りする時、休まれる土地とされ、長年の耕作地化の中でも鍬(くわ)が入らず残されてきた。
旧都祁村一帯には、茶畑の中に茅葺き農家が点在する美しい山村風景が残る。ユネスコ無形文化遺産に指定された上深川(かみふかわ)・八柱(やばしら)神社の「題目立(だいもくたて)」(10月12日)をはじめ、独自の地域文化が今もしっかりと守り伝えられている。
(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 藤村清彦)
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