< 第65回へ 第66回 2014年2月15日掲載 第67回へ > |
月ケ瀬梅林 16日から梅まつり ―― 最盛期10万本で烏梅作り |
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梅の花は、春に先がけて咲くので春告(はるつげ)草ともいう。県内で梅の名所として真っ先にあがるのは、三大梅林の月ケ瀬(奈良市月ヶ瀬)、賀名生(あのう)(五條市西吉野町)、広橋(吉野郡下市町)だろう。
なかでも月ケ瀬は、大正時代には奈良公園や金沢兼六園とともに国の名勝第1号に指定されるほど梅の名所として名高い。
県の最北東部、京都・三重との府県境に位置し、五月(さつき)川(上流は名張川、下流は木津川)が作った深いV字谷に約1万本の梅林が広がる。
梅林の起源としては、元久2(1205)年、真福寺(しんぷくじ)境内に天神社を建立する際、菅原道真の好んだ梅を植えたのが始まりと伝わるが、地区で最も古い「桃仙(とうせん)の梅」の推定樹齢から、少なくとも600年前にはさかのぼれるという。
梅林はもともと「烏梅(うばい)」を作るために拡大した。奈良時代に遣唐使が持ち帰ったという烏梅は、古くから薬用や染色に用いられてきた。
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月ヶ瀬湖周辺に咲く梅=奈良市
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梅は万葉集でも数多く詠まれているが、いわゆる万葉仮名(まんようがな)での表記は「梅」についで「烏梅(うめ)」が多い。
筑前守(ちくぜんのかみ)であった山上憶良(やまのうえのおくら)が太宰府の宴で詠んだ歌がある。
春さればまづ咲くやどの烏梅(うめ)の花 独り見つつやはる日暮らさむ(万葉集巻5−818)
烏梅製造の始まりについて、こんな伝承がある。鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱(1331年)で敗れた後醍醐天皇が笠置から落ちのびたとき、その女官の1人(園生(そのお)姫または姫若)が当地に逃げてきて村人に救われ、永住した。女官は世話になった礼として、京都で高価な烏梅の製法を教えたという。
平地の少ない急峻(きゅうしゅん)な地形で米作りが難しいため、人々は林間の渓谷や空き地を利用して梅の木を植え、烏梅を生産して京の染物屋に送り、貴重な収入源とするようになった。最盛期には全山10万本の梅で埋め尽くされたという。
明治以降は安価な化学染料の輸入によって需要が激減、人々は梅の木を切って桑や茶を植えるようになり、梅林は荒廃した。その後、梅林の保護が叫ばれ、月ケ瀬保勝会の設立によって梅林は残ったが、烏梅の製造はほとんど絶えてしまった。
現在では月ヶ瀬尾山の中西家1軒となり、中西喜久(よしひさ)氏は国選定文化財保存技術「烏梅製造」で全国唯一の保持者に認定されている。
毎年7月初旬、半夏生(はんげしょう)の日に氏神天神にお参りし、翌日から烏梅造りが始まる。完熟して木から自然に落ちた梅の実を拾い集め、ススをまぶして窯で一昼夜蒸し焼きにする。それを種までカラカラになるよう1カ月近く天日で乾燥させるとできあがる。
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烏梅と椿の造花「糊こぼし」
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今でも烏梅は伝統的な紅花染めには欠かせない媒染剤(発色剤)で、東大寺修二会(しゅにえ)で仏前に供えられる「糊(のり)こぼし」という椿の造花の花びらにも紅花染めの紙が使われている。
梅林の存在を世に知らしめたのは、幕末近くに来遊した伊勢津藩の儒者・斎藤拙堂(せつどう)と京都の文人・頼山陽(らいさんよう)だ。漢詩や紀行文で美しさをたたえた。以来多くの文人墨客や著名人がこの地を訪れるようになった。
近いところでは、水上勉が小説「紅花物語」で月ケ瀬梅渓を描いた。山形特産・最上(もがみ)の紅花に亡父の故郷・月ケ瀬の烏梅を使って評判の口紅を作る京紅職人が主人公の物語だ。
この梅林に危機をもたらしたのは五月川の高山ダム建設計画で、そのままだと3800本の梅が水没することになったため、古木の移植と植林で新たな梅林が設けられた。昭和44年のダム完成後、五月川の渓谷は月ケ瀬湖に変貌したが、守られた梅林が訪れる人の目を楽しませている。
月ケ瀬は平地と比べて梅の開花が遅く、毎年2月中旬から3月末まで「梅まつり」が催される。今年は2月16日から3月31日までだ。梅の芳香を楽しみながら早春の梅林を散策してみよう。
(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄
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