藤原京は、持統天皇8年(694)に飛鳥浄御原宮から遷都され、文武天皇を経て元明天皇が平城京へ移る和銅3年(710)までの16年間にわたる都です。
藤原京はそれまでの天皇が代わるごとに宮が変わる飛鳥の都とは異なり、日本で最初に全体的な都市計画に基づいて、条坊制を採用した本格都城として知られており、その大きさは平城京、平安京をしのぎ古代最大であったとされます。
都の中央部に藤原宮を設け、東西路「条」と南北路「坊」を碁盤目状に配置する「条坊制」とし、藤原宮から南にメインストリート「朱雀大路」が延びていました。北から見て2分された京の東側を「左京」、西側を「右京」とし、街路は格子状に整然と区画され、都全体が秩序正しい方形をしています。理想の都城として周礼(しゅらい)考工記にある中央宮闕(きゅうけつ)型都城を参考にしたと言われています。
新しき都で「大宝律令」が制定され、律(刑法)、令(行政法など)制度が完成します。この頃、新たな国号・日本も誕生したとされています。
新たな国号は、33年ぶりの粟田真人(あわたのまひと)を執節使(大使)とする第8次遣唐使によって唐に伝えられました。粟田真人が唐で見聞した当時最新の唐長安城と藤原京の都の形態の違いが、わずか16年で藤原京から宮を京の北端に置き天子が南面する「北闕(ほっけつ)型」の都城である平城京に遷都される大きな要因の一つではないかと言われています。ちなみに、「藤原京」は近代に作られた学術用語で、『日本書紀』には「新益京(あらましのみやこ)」と記されています。
(奈良まほろばソムリエの会会員 岡田充弘)
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