古墳はこんもりとした墳丘が通常ですが、石舞台古墳は石室が見事に露出しています。いつごろ、どのようにして露出したかは不明ですが、江戸時代の『西国三十三所名所図会』には墳丘の盛土がありません。基壇の一辺は約50メートルの方墳で、7世紀前半の最大級の横穴式の古墳です。1952(昭和27)年に特別史跡に指定されました。
玄室の側壁には3段、奥壁には2段、天井には2石の巨石が組まれていて、玄室、羨道(せんどう)に排水溝が作られています。
大小約30個の石材は花こう岩で、多武峰から流れる冬野川の上流、細川谷の茂古森(もうこのもり)付近の石であると言われています。1972(昭和47)年から、細川谷古墳群の調査があり、その最西端の7基の古墳を潰して石舞台が作られたことが確認されました。細川谷古墳群は6世紀後半の蘇我氏の関係者の墓とも言われています。
石室の形態や所在地、『日本書紀』の626(推古34)年の馬子大臣が亡くなり桃原墓(ももはらのはか)に葬ったという記事などから、埋葬者は蘇我馬子と推定されています。
石舞台は中心が北東に45度傾いていて、天井石のはるか西に二上山が見えます。二上山に沈む夕日は西方浄土のようであり、仏教を信心していた蘇我馬子にはふさわしく思え、露出している巨石は、天を仰ぐ石の記念碑のようです。いつも供花がされていて、古墳本来の祈りが感じられます。
国営飛鳥歴史公園石舞台地区は、春は桜、秋はそばの花がきれいで、南側には冬野川が流れていて、のどかな所です。
(奈良まほろばソムリエの会会員 平越真澄)
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