710(和銅3)年なんと美しい「平城京」に都が遷(うつ)されてきました。平城京の「京(きょう)」とは碁盤目状に道で区切られた町全体のことで、その北部中央のおよそ1キロ四方の築地(ついじ)塀(築地大垣)で囲まれた地域が平城「宮(きゅう)」です。
平城宮には大極殿(元旦の式典や外国からの使節の謁見など大切な儀式が行われた建物)、朝堂院(官庁街のような所)、内裏(皇居)など、現在の首都の機能が集められ、たくさんの役人が働いていました。
この平城宮を囲む築地塀は、泥土を棒でつき固めた「版築(はんちく)」という工法で作られ、瓦で葺(ふ)かれ、高さは5メートルを超える強固なものでした。しかし発掘された木簡などから遷都した時には、まだ大極殿や築地塀は出来上がっていなかったことが分かりました。遷都はしたけれど、平城宮はまだ建設途上だったのです。
この築地塀の中では元明天皇から桓武天皇まで7人の天皇が政(まつりごと)をされました。その間には、国の歴史をまとめた「古事記」「日本書紀」の編さん、政の決まりを定めた「養老律令」の施行、各地への国分寺・国分尼寺の建立発願、大仏の造立、遣唐使による先端文物の導入など、日本が中央集権国家として成り立っていくさまざまな出来事がありました。この築地塀はまさに日本を国家として育んだゆりかごだったのです。
平城宮跡歴史公園では、平城宮の正門である朱雀門と、その周辺には築地塀の一部も復元されており、当時のその姿を思い描くことができます。
(奈良まほろばソムリエの会理事 大江弘幸)
|