奈良時代に光明(こうみょう)皇后は平城宮の東隣にあった父・藤原不比等の邸宅を皇后宮(ぐう)にしました。聖武天皇の「国分寺・国分尼寺(にじ)建立の詔(みことのり)」に基づき皇后宮を寺に改め、正式には「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」と称しました。聖武天皇勅願(ちょくがん)の東大寺が総国分寺だったのに対し、光明皇后ゆかりの法華寺は総国分尼寺とされ、諸国の国分尼寺をまとめたのです。
当時の寺域は今の何倍もあり、国家の力で七堂伽藍(がらん)が造営され、壮麗な大寺でした。平安遷都後、衰退し、戦火で被害を受けましたが、鎌倉時代に高僧の重源(ちょうげん)や叡尊(えいそん)によって復興されました。桃山時代には、豊臣秀頼や母の淀君の寄進を受け、奉行の片桐且元(かつもと)が本堂、南門、鐘楼(しょうろう)(いずれも重要文化財)を建設。そして、後水尾(ごみずのお)天皇の皇女、高慶尼(こうけいに)が入寺されて以降、皇室・公家の姫君が住職を務める「尼門跡(あまもんぜき)寺院」となり、法灯が守り続けられています。
本堂の本尊十一面観音菩薩(ぼさつ)立像(国宝)は、光明皇后がハス池を歩く姿を写したと言われ、年3回特別公開されます。それ以外のときは白檀(びゃくだん)のご分身像を拝観できます。
光明皇后は仏教をあつく信仰し、「日本の社会福祉の第一人者」と評され、自ら1000人の病人のあかを流したと伝わる蒸し風呂「からふろ」を法華寺に造られました。現存するのは江戸時代に再建したものです。
光明皇后が考案された「お守り犬」は今も同じ製法で尼僧が手作りし、厄除・長寿・安産のお守りとして親しまれています。授与希望者の電話予約は受けていますが、発送はしていません。
(奈良まほろばソムリエの会会員 青木章二)
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