倭建命(やまとたけるのみこと)は第12代、景行(けいこう)天皇の皇子で、荒々しい性格であったと古事記に記されています。景行天皇は息子を恐れ、大和に抵抗する民「熊襲(くまそ)」退治に九州へ遣わします。平定して戻ると、今度は東国を従わすように命じました。再び平定した帰り、伊服岐(いぶき)(現在の伊吹山)の山の神を討ち取ろうとしますが、神の怒りを買い、傷ついて山中をさまよいました。現在の亀山市能煩野(のぼの)にたどり着いた時、心身ともに疲れ果て、故郷を思って詩を詠んだと伝わります。
「大和は国のまほろばたたなづく青垣 山ごもれる 大和しうるわし」
意味は「大和は国の中で一番良いところである。幾重にもかさなりあった垣根のような山やまにかこまれた大和はほんとうに美しくて立派なところだ」とされています。
その後、力尽き、この地で亡くなり、葬られました。やがて倭建命の魂は白鳥になって飛び立ったと書かれています。
その歌碑が桜井市の井寺(いでら)池にあります。景行天皇の宮、纏向日代宮(まきむくひしろのみや)があったとされる穴師(あなし)の近くです。市広報「わかざくら」によると、歌碑は万葉集に詳しい川端康成氏に揮毫(きごう)を依頼し、1972(昭和47)年1月、氏が下検分に来られましたが、同年4月に亡くなられたため、夫人の許可を得て、ノーベル賞受賞式での講演原稿の文字を集めて作られました。
ここに立つと、奈良盆地と大和三山、正面には二上山を望むことができ、青々とした山並みが都だった土地を守るように連なり、大神神社のご神体、三輪山がその姿を湖面に映しています。
(奈良まほろばソムリエの会会員 森屋美穂子)
|