聖徳太子は、熊凝(くまごり)の地に釈迦の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)に倣って学問所を建て熊凝精舎と名付けました。熊凝山の山号はそれに由来します。太子の叔母、推古天皇の額の傷の平癒に効があり、額安寺(かくあんじ)の寺号を賜ったと伝えられます。
奈良時代は広大な偉容を誇りましたが、檀家(だんか)を持たない学問所の額安寺は衰退していきました。
額安寺で得度した忍性(にんしょう)らによって鎌倉時代に再建されます。忍性の遺言で額安寺に分骨された骨臓器は、五輪塔とあわせて国の重文に指定されています。
古(いにしえ)から同寺は衰退、修理と復興を繰り返す歴史を重ねてきました。
戦国時代には豊臣秀吉の命により、塔も四天王寺に移されて本堂だけになった時代もありました。
明治時代には廃寺同然となりますが、1975(昭和50)年、名刹(めいさつ)の消失することを恐れて近くで誕生された喜多亮快(りょうかい)師が復興事業を進め、亮快師没後は妻の寿桂(すが)住職がその志を継ぎ現在の額安寺の姿となりました。
室町期の十一面観音菩薩(ぼさつ)が本堂に置かれています。奈良時代から現代に至るまでの屋根瓦を生かして、修復された本堂に額安寺の歴史の重さを感じます。
【奈良まほろばソムリエの会 会員 酒井良子】
■宗派 単立(真言系)
■住所 大和郡山市額田部寺町36
■電話 0743・59・1128
■交通 近鉄平端駅から徒歩20分
■拝観 10~16時、100円
■駐車料 有(無料)
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