なら再発見
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入鹿の首伝承 ―― 正史の裏にある敗者の一面
 
 学校の授業でもおなじみの乙巳(いっし)の変(大化の改新)は645年、中臣鎌足(なかとみのかまたり)(後の藤原鎌足)と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)の2人が中心となり、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で蘇我入鹿(いるか)を殺害した古代の大事件だ。
 多武峯(とうのみね)縁起絵巻には、入鹿の首が見事に切断された姿が描かれている。日本書紀には首を切断したとの記述はないが、各地に入鹿の首の伝承が残っている。
 平成25年6月22日付の『なら再発見』で「入鹿の首塚と茂古森(もうこのもり)」と題して、明日香村にある入鹿の首塚や、茂古森まで飛んでいったとされる伝承を紹介した。今回はその続編で、明日香村以外の場所に残る入鹿の首の伝承を紹介する。

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 1つ目は、明日香村の隣の橿原市曽我(そが)町。蘇我氏の本拠地ともいわれ、村内には宗我坐宗我都比古(そがにいますそがつひこ)神社がある。昭和8年発行の「大和の伝説」には、「昔、鎌足に打たれた入鹿の首は、現在の曾我の東端“首落橋”の附近にある家のあたりに落ちた。それで、その家を“おつて家”と呼ぶ」と記されている。地元の方の話では、曽我町の伊勢街道沿いに今もある民家の屋号が「おつて屋」で、かつてはその横を小川が流れ、「首落ち橋」と呼ばれた橋があったという。
 すぐ隣の小綱(しょうこ)町には、入鹿神社がある。入鹿神社のあたりに幼少時の入鹿の住まいがあったとの伝承があり、昔から入鹿びいきの土地柄である。小綱町の住民が、鎌足を祀(まつ)る談山(たんざん)神社へ行くと腹痛がおこるとの言い伝えが残っている。

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 入鹿の首が飛んだ場所は、県内にとどまらない。奈良県と三重県の県境にある高見山の三重県側の麓、松阪市飯高(いいだか)町舟戸(ふなと)には、入鹿の首塚と呼ばれている五輪塔がある。一説には、高見山まで飛んできた入鹿の首が力尽きて落ちてきたのを祀ったのが、その五輪塔だという。
 地元には面白い伝承が残っている。高見山に登る時には「鎌足を思い出すから」と鎌を持って登ることは戒められており、もし戒めを破って鎌を持っていくと必ずけがをする―とか。また、「五輪塔に詣(もう)でると頭痛が治る」などといわれたようだ。
 五輪塔の場所から、少し高見山側に登っていくと、能化庵(のうげあん)と書かれた案内板が立っている。入鹿の妻と娘が入鹿を供養し首塚を守るため、尼となって住んでいた寺院跡だという。


蘇我入鹿の首を葬ったとの伝承がある五輪塔=三重県松阪市飯高町舟戸

 飯高町郷土史は、「この五輪塔が蘇我入鹿の怨霊を鎮めるためのものなのか、あるいは全く無関係なものなのかは不明」としながらも、「“火の気のない所に煙は立たない”のことわざ通り、蘇我氏とは何らかの因縁をもつ土地であったのだろう。怨霊が再び都へ舞い戻らぬためにも、高見山の裏側の舟戸の地へ鎮魂することは考えられなくもない」と記している。

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 歴史の舞台には、多くの悲劇の人物が登場するが、歴史書は往々にして勝者を正当化して英雄としてたたえる。
 近年では、蘇我氏が仏教などの大陸文化の受容に主導的な役割を果たしたことが評価されるようになってきた。また、大化の改新を正当化するため、日本書紀は蘇我蝦夷(えみし)・入鹿親子を逆賊として描写した、という話もしばしば聞く。
 真偽はともかく、敗者とされた者の中には、心ある人たちによってひそかに祀られ、伝承として語り継がれていることも少なくない。
 今回、正史(せいし)の裏に見え隠れする蘇我入鹿の一面を、首伝承という側面から探ってみたが、つくづく歴史は面白いと思う。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 露木基勝)

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