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桜井・相撲神社 ――古代の力士 勝負は命がけ |
相撲は、古代には命がけの格闘技だったようだ。日本書紀によると、今から約2千年前の垂仁天皇の時代に、国内で初めて天皇の前で相撲が行われたとされる。
当麻蹶速(たいまのけはや)という力自慢が「自分より強いものがいるなら、ぜひ戦ってみたい」と豪語していた。それを耳にした天皇が対抗できる力自慢を探させ、呼び寄せたのが出雲の野見宿禰(のみのすくね)だ。結果は、野見宿禰が当麻蹶速のあばら骨を蹴り折り、その腰を踏み砕いて勝利を手にいれた。 |
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取り組みが行われた場所が、桜井市穴師の大兵主(だいひょうず)神社境内の野見宿禰をまつる相撲神社。小さい祠(ほこら)があり、境内の4本の木に囲まれた空間を土俵に見立てている。
昭和37年には、当時の日本相撲協会の理事長や幕内力士がこの地を訪れ、顕彰大祭が行われた。大鵬(たいほう)と柏戸(かしわど)の両横綱による土俵入りも奉納された。
伝説の舞台に立ってみると、どんな死闘が繰り広げられたのだろうかと想像が膨らんでくる。
野見宿禰に関して、日本書紀には、出雲国より即日に召集したという記述がある。「島根(出雲)から奈良まで即日に招集できたのか?」と思われるかもしれないが、実は山陰の出雲ではなく、桜井の出雲から呼び寄せたという説がある。
* * * 桜井市出雲は三輪山の東側に位置する。大兵主神社は三輪山の西側で、峠を越えれば約5キロの距離。それなら「強い人がいる」という噂も当然伝わり、即日招集できたのも納得できる。 |
土俵に見立てられた神聖な空間=桜井市の相撲神社 |
その出雲には、野見宿禰に関する伝承が多い。地元にある十二柱(じゅうにはしら)神社も、そのひとつだ。
境内には、鎌倉時代の巨大な五輪塔がある。これは、ここから南約300メートルの場所にあったという野見宿禰塚から移された、とされている。
五輪塔は鎌倉時代初期に、野見宿禰の冥福を祈るため建てられたと伝えられている。
鳥居脇の狛犬(こまいぬ)は必見で、まわしを締めた8体の力士が狛犬を支えている。野見宿禰は当時、習慣化されていた殉死の代わりに、埴輪(はにわ)を陵墓に並べることを提案し、埴輪作りの祖とも言われる。
力士像を眺めていると、どこか埴輪に通じる素朴さを感じる。いずれの力士も異なる相撲の型をとっていて、筋肉の盛り上がりなども写実的。力強い表現は見ていて飽きることがない。
百聞は一見にしかず。ぜひ立ち寄り、実物をご覧いただきたい。
(奈良まほろばソムリエ友の会 露木基勝)
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