< 第28回へ 第29回 2013年5月18日掲載 第30回へ > |
金剛・葛城山麓 ―― 神話の世界 足跡訪ねて |
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仏教伝来以前の古代人にとって、太陽や雨風、山川、草木などの自然、その化身である神々は、日々の祈りの対象だった。
そんな神さびた風情を漂わす金剛、葛城の両山麓(さんろく)(いずれも御所市と大阪府千早赤阪村にまたがる)で、記紀神話に登場する神々ゆかりの神社や、古代天皇、豪族の足跡を訪ね歩くのは楽しい。
近鉄御所駅より奈良交通バスで約20分、「風の森」バス停で下車。このバスは大和八木〜和歌山・新宮間(167キロ)を約6時間半かけて走る、日本最長の路線バスとして知られる。
新緑に輝く金剛、葛城連峰を眺めながら山中へ。
急坂を息を切らせながら登り着いた高天(たかま)の台地は、太古より神々が住むとされる「高天原(たかまがはら)」伝承地だ。古代豪族、葛城氏が崇敬した高天彦(たかまひこ)神社(御所市高天)が、神体山の「白雲の峯」を背後に鎮座している。
「古事記」に最初に登場する三柱の神の一柱で、天孫降臨を指揮した高御産巣日神(たかみむすひのかみ)を祭る。境内で汗を拭きながら一息入れる。老杉の間を時折吹き抜ける一陣の風は、八百万(やおよろず)の神々の囁(ささや)きのようだ。
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神社前の畦(あぜ)道を抜けた林に、「蜘蛛窟(くもくつ)」と呼ばれる土蜘蛛(つちぐも)の住処(すみか)跡がある。新天地を求めてやって来た神武天皇と戦い、滅亡した先住民だ。
作家の司馬遼太郎は、竪穴で暮らす穴居人(けっきょじん)を皇軍が土籠(つちごも)と呼び、後に土蜘蛛の文字があてられたのだろうと記している。
土蜘蛛とは、勝者が敗者を呼ぶ蔑称(べっしょう)に他ならない。石碑の裏面に「皇紀2600年」と彫られており、神武軍の勝利を称えた顕彰碑のようだ。昔よく見た西部劇の映画で、妻子や居住地を守るため白人と戦ったインディアンの姿に重なる。
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次に向かったのは、一言主(ひとことぬし)神社(同市森脇)。「悪いことも一言、善いことも一言」で言い放つという一言主神を祭る。地元の人は親しみを込めて「いちごんさん」と呼ぶ。
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土蜘蛛の住処跡とされる「蜘蛛窟」=御所市 |
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境内にある「蜘蛛塚」は、土蜘蛛を葬った墓と伝わる。日本書紀には、土蜘蛛は背が低く、手足は長く、皇軍は葛の網を編んで殺したと記されている。
それで、その村を葛城と名付けたのが地名の由来とされる。
葛城山に狩りに出かけた雄略(ゆうりゃく)天皇一行が、同じ装束の一言主神の一行に遭遇。恐れ入って武具と衣装を差し出す古事記の場面は、土蜘蛛の精魂の意趣返しではなかったか。
土蜘蛛が朝廷に祟る話は、後世にも謡曲などで語り継がれている。私が少年期を過ごした中国山地では、神楽(かぐら)が盛んで、土蜘蛛と坂田金時が戦う演目「葛城山」は手に汗握る迫力だ。
神話の世界に浸った帰路、車窓から見る葛城山の上空を、雲がゆっくりと流れていた。
ふと、万葉集の一首を思い浮かべた。
「春柳(はるやなぎ)葛城山に立つ雲の立ちても居ても妹をしぞ思ふ」(葛城山に立つ雲のように、立っても座ってもあの人のことを思い出す)
(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 田原敏明) |
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