< 第29回へ 第30回 2013年5月25日掲載 第31回へ > |
近鉄奈良駅前の行基広場 ―― 民衆から支持 今もなお |
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奈良市の近鉄奈良駅前の行基(ぎょうき)菩薩像が建っている広場。新たな屋根の設置も終わり、待ち合わせのスポットなどとして利用されている。
行基菩薩像は、もとは赤膚(あかはだ)焼製だったが、いまはブロンズ製となっている。43年前に建立されたが、心ない人に壊され、平成7年にブロンズ像で復元。現在は、台座のみが赤膚焼だ。
赤膚焼の行基像は同時に3体作られ、行基ゆかりの霊山寺(奈良市中町)、九品寺(御所市楢原)にある。すべてが東大寺に向けて建てられている。
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近鉄で奈良に来て、最初に出合う行基菩薩とは何をした人で、なぜここにいるのか―。
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行基(668〜749年)は、当時の河内国(現在の大阪府堺市)に生まれた。15歳で出家し、飛鳥の地に赴いた。ここで、唐から帰国した道昭(どうしょう)を知った。「西遊記」の三蔵法師で有名な唐の玄奘(げんじょう)から、最新の仏教教学を学んだ慈悲深い道昭の生き方に強く影響を受けた。
行基は青年期に修験道の祖、役小角(えんのおづぬ)のもとで葛城山で修行したが、40歳を過ぎて生駒山に修行の場を移した。この頃、平城京の造営事業に携わった労役者の逃亡、流浪が増加するようになった。
これを目の当たりにした行基は平城京に出て、救済に立ち上がる。これらの人々を托鉢僧とし、露をしのぐ院を建てた。行基の活動は各地に伝わり、都の法会に1万人もの人々が集まるようになった。
当時、国家が僧を定め、庶民への布教は認められておらず、行基の活動も禁止された。
それでも行基は庶民のための寺院「四十九院」を次々に建てた。水田開発も進め、各地にため池を造り、港を整備、橋も架けた。
身寄りのない人のために福祉事業にも取り組んだ。行基は常に、庶民の側に立った仏教指導を行った。遂には朝廷も行基の活動を認めるようになった。
743年、聖武天皇は大仏建立の発願を決意し、広く民衆に支持されている行基を責任者に任命した。
造仏が進展する中、749年、行基は奈良市の菅原寺(今の喜光寺)で、大勢の人々に見守られながら亡くなった。大仏開眼の日、聖武天皇(すでに譲位)は行基に感謝の想いを念じたと伝えられる。
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近鉄奈良駅前の広場に建っている行基像=奈良市 |
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国家によって弾圧されながら、ひたすら民衆とともに仏道を貫き、最後は民衆に見守られて亡くなった行基。
平成10年、東大寺で行基1250年遠忌(おんき)法要が盛大に営まれ、ゆかりの全国460カ寺院からも参集した。
仏教の都・奈良を象徴する人物は行基が最もふさわしいと、今なお多くの人々に慕われている。
(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 鈴木浩) |
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