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第39回へ                  第40回 2013年8月10日掲載                  第41回へ >
阿日寺 ―― 恵心僧都源信 生誕の地
 
 香芝市良福寺では2か所に「恵心僧都(えしんそうず)生誕地」の石碑が建つ。一つは恵心僧都と称された源信(げんしん) (942〜1017年)の生誕寺とされる阿日寺(あにちじ)の門前。もう一つは住宅地の中で、かつては二上山をよく見晴らせたと思われる場所に建っている。
 この地で生まれた源信をご存じだろうか。平安時代の人で、大和国葛下郡當麻郷(今の葛城市當麻から香芝市良福寺、五位堂にかけての地域)で生まれた。幼少から比叡山延暦寺で修行を積み、比叡山の横川(よかわ)にあった恵心院に住んでいたことから恵心僧都と呼ばれた。
 源信は高校の日本史の教科書に登場する「往生要集(おうじょうようしゅう)」の著者として知られる。地獄のありさまや極楽往生の方法を書いた著作で、当時多くの貴族の間で読まれていた。この著書を参考に極楽往生を遂げようと考えた人も多かったという。
 また、ここに著された念仏により極楽往生を遂げるという浄土信仰の思想は、鎌倉時代の法然の浄土宗や親鸞の浄土真宗などへ受け継がれていく。



源信の生誕寺とされる阿日寺の門前=香芝市
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 源信の母は非常に信仰に篤い人で、次のような逸話が残されている。
 源信は幼い頃から比叡山で学問に打ち込み、立派な学僧となった。15歳のときに宮中で経典の講義をし、その時に頂いた褒美の品を郷里の母に送った。しかし、母からは次のようにいさめる歌が送り返されてきたといわれる。
 「後の世を渡す橋とぞ思いしに/世渡る僧となるぞ悲しき」(私はお前に後の世を渡す橋となってほしかった。それを忘れてお前は自分の世渡りのために仏法を道具としているのではないか)。
 母が息子の成長を喜ばないわけはないが、立派な僧になってもらうため心を鬼にして、このような歌を返したのだ。
 その母の言葉に従い、源信は名僧への道を捨て、比叡山の横川にある恵心院で念仏ざんまいの道を選んだといわれる。
 「源氏物語」の宇治十帖には、浮舟を助ける「横川の僧都」が登場する。入水したが死にきれなかった浮舟を助け、後に彼女の願いを聞き、出家させた高僧である。そのモデルが源信であるとされ、都では有名な人物であったようだ。

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 香芝市良福寺周辺には源信ゆかりの場所が数多くある。まずは源信の誕生寺とされる阿日寺。母の臨終の際、源信が祈願をした衣服を着せかけると、何の苦しみもなく往生をしたといわれる。そのため本尊にお参りすれば、周囲の世話をかけずに安楽往生できる寺として信仰される。源信が開基と伝える斑鳩町の吉田寺(きちでんじ)と並ぶ「ぽっくり寺」として参拝者が後を絶たない。
 また、葛城市當麻の當麻(たいま)寺で毎年5月14日に行われる練供養会式(ねりくようえしき)(聖衆来迎(しょうじゅうらいごう)練供養会式)を始めたのも源信といわれる。
 その起源は源信が比叡山で行った法要とされる。生まれ故郷にある當麻寺に伝わる「中将(ちゅうじょう)姫伝説」に深く感銘を受けた源信により、1005(寛弘2)年、當麻寺で始められたとされ、今日まで続く。
 5月14日は中将姫の命日にあたる。29歳で二十五菩薩に導かれ、極楽浄土へ往生する様相を再現したのが練供養会式で、夕日が二上山にかかり、辺りは西方浄土の様相に包まれる。
 源信をしのび、県下のゆかりの地を巡るのも良いのではないだろうか。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 大山恵功)
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