< 第52回へ 第53回 2013年11月9日掲載 第54回へ > |
高取城跡 ―― 壮麗な石垣に紅葉 美しく |
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高取城は美濃岩村城、備中松山城と並ぶ日本三大山城のひとつだ。城下町との標高差は390メートルで、これは日本一。建物は失われているが、石垣が残る。貴重な城郭資料として国の史跡に指定され、また奈良県では唯一、「日本100名城」に選定されている。
かつては「芙蓉(ふよう)城」と呼ばれた。芙蓉はハスの花の別称で、美人をたとえていう。「巽(たつみ)高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城」という俗謡もあった。土佐は高取の旧名。白亜の天守や櫓(やぐら)は、奈良盆地の各地から見渡せたそうだ。
南北朝時代から江戸時代にかけて、主に越智氏、本多氏、植村氏の居城となってきた。江戸時代には高取藩の藩庁だった。周囲は約30キロ。その中に大小の天守や27基の櫓、33基の門、武家屋敷があった。
城は標高583メートルの高取山の山頂から山腹に築かれている。壷阪寺付近から登ると約1時間かかるが、車で八幡口(壺阪口門跡の手前)まで登り、そこから歩くと約20分で天守台に着ける。
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壮麗な石垣と紅葉のコントラストが見事な高取城跡(平成15年ごろ撮影、高取町提供)
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急峻(きゅうしゅん)な坂道は、まっすぐには登れない。石垣の角を何度も曲がらなければならず、しかも上には兵のいる櫓があった。鉄壁の守りなのだ。
今からちょうど150年前の幕末の動乱期、天誅(てんちゅう)組がこの城を攻め落とそうとした。その意図は潰(つい)えたが、難攻不落の山城は長期に立て籠もるには絶好の場所と考えたのだろう。
かつてここを訪ねた司馬遼太郎は著書「街道をゆく」に次のように記している。
《高取城は、石垣しか残っていないのが、かえって蒼古(そうこ)としていい。その石垣も、数が多く、種類も多いのである。登るに従って、横あいから石塁があらわれ、さらに登れば正面に大石塁があらわれるといったぐあいで、まことに重畳(ちょうじょう)としている。それが、自然林に化した森の中に苔(こけ)むしつつ遺(のこ)っているさまは、最初にここにきたとき、大げさにいえば最初にアンコールワットに入った人の気持ちがすこしわかるような一種のそらおそろしさを感じた。》
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高取城の建物のいくつかは、麓(ふもと)の町なかで目にすることができる。二ノ門は子嶋寺山門、藩主下屋敷の表門は石川医院の表門、松ノ門は修復されて児童公園の門として残されている。
高取町観光案内所「夢創館(むそうかん)」では、コンピュータグラフィックスによる高取城の再現動画が視聴できる。往事の雄姿と現在の城跡を比較しながら見られる仕掛けで、必見だ。
児童公園や土佐街道周辺では、勤労感謝の日の11月23日に「たかとり城まつり」が開催される。平成元年にスタートし、今年で25回目。火縄銃の実演や大道芸、時代行列などがにぎやかに行われる。
土佐街道入り口の花畑には昨年、地元の高齢者がビールのアルミ缶3万5679個を使って制作した高取城天守の巨大オブジェがそびえ立っている。
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高取城跡・天守の南側からは吉野山や大峰山脈、東側からは樹氷で知られる高見山が遠望できる。城跡では春の桜のほか、これからの季節には紅葉が見ものだ。
今年は全国的に紅葉の当たり年といわれる。壮麗な石垣と紅葉のコントラストは見事だ。ぜひ、高取城跡に足をお運びいただきたい。
(NPO法人奈良まほろばソムリエの会専務理事 鉄田憲男)
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