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第53回へ                  第54回 2013年11月16日掲載                  第55回へ >
八木札の辻 ―― お伊勢参り光景浮かぶ
 
 日本書紀の推古天皇21(613)年に「難波より京(飛鳥)に至るまでに大道(おおじ)を置く」と記されている。
 大道は日本最古の官道で、現在の「竹内(たけのうち)街道」(堺市から葛城市)および「横大路」(葛城市から桜井市)であるとされ、今年は設置されて1400年目の年である。
 橿原市の「札の辻」(北八木町・八木町)は、東西路の「横大路」と7世紀中頃に整備されたとされる南北路の「下(しも)ツ道」(中街道)の交差点。日本最古の国道交差点といわれる。
 八木町は古くからこの周辺を中心に発達した。中世から「八木市」が開かれ、南大和の物資の集散地として繁栄。江戸時代には高札場になっていたことから「札の辻」と呼ばれた。当時の絵図に描かれた高札場横の六角形の井戸は半分になったが、今も残っている。
 江戸時代には伊勢参りでにぎわい、横大路は伊勢街道とも呼ばれた。交差点の北側に、東西の平田屋が宿屋を営んでいた。東の平田屋は橿原市が建築当初に近い姿に復元整備し、「八木札の辻交流館」として無料で公開している。
 二階に上ると、部屋の欄間には伊勢参り道中の風景が道順に彫刻されており、交差点を見下ろして伊勢参りの人々が行きかった光景を想像することができる。
 伊勢参りでは、突発的に民衆が集団で参宮する現象が起きた。これを「おかげ参り」という。慶安3(1650)年、宝永2(1705)年、享保8(1723)年、明和8(1771)年、文政13(1830)年の5回が代表的だ。


伊勢参りの面影を残す「八木札の辻交流館」=橿原市

 おかげ参りと呼ばれるようになったのは明和以降で、それ以前は「抜け参り」と呼ばれた。親や仕事先の主人に断らず黙って参宮したからという説がある。
 宝永2年の参宮者は362万人という。子供や女性が多く、地域も関東や中部、畿内と広く、参宮者への食物その他の施行(せぎょう)(無料の接待)もみられた。
 明和8年のおかげ参りは丹後や山城から始まった。この頃には「お札降(ふだふ)り」といって、伊勢神宮のお札が空から降ってくる現象が起きたこともある。施行により神のおかげで参宮ができるという意識が広まり、「おかげ参り」の語が一般化した。地域は近畿、中国、四国はもとより、九州から関東まで広範囲だった。


道案内として設置された「太神宮燈籠」=橿原市
 おかげ参りは60年ごとに起こると民衆から期待されるようになったが、文政13年は1年早く阿波からおこり、450万人以上が参宮したとされる。頭に笠(かさ)、手に柄杓(ひしゃく)というおかげ参りの装束で、笠の印や幟(のぼり)を目印に集団をつくった。河内・大和などの畿内一円では、村ごとに衣装を整えて踊る「おかげ踊り」が流行した。
 今年の伊勢神宮参拝者は、20年に1度の式年遷宮の効果もあって過去最高の1千万人を超える予想だが、月平均だと83万人なので「おかげ参り」の殺到ぶりは想像を絶する。
 札の辻から横大路を西に100メートルほどたどると「接待場(せんたいば)」跡がある。おかげ参りの参詣者に施行をした場所で、文政13年の接待小屋を描いた文書が残されている。
 さらに200メートル西の伊勢街道沿いには、道案内として設置された「太(だい)神宮燈籠(とうろう)」が残っている。もとは接待場跡にあったもので、高さ2.28メートル。明和8年の銘がある。
 札の辻界隈(かいわい)には、この地を訪れた松尾芭蕉の句碑「草臥(くたび)れて宿かる此(ころ)や藤の花」もある。幕末の思想家・吉田松陰が訪れた儒学者・谷三山の生家をはじめ、古民家約300軒が落ち着いたたたずまいをみせている。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄)
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