< 第70回へ 第71回 2014年3月29日掲載 第72回へ > |
向原寺 ―― 飛鳥時代を今に伝える |
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向原(こうげん)寺は、明日香村豊浦(とようら)にある浄土真宗本願寺派の寺だ。今、集落のなかにひっそりと建つこの寺には、驚くような歴史が詰まっている。
「日本書紀」には欽明天皇13(552)年、蘇我稲目(そがのいなめ)が百済王から献上された釈迦像を向原(むくはら)の家に安置した、とある。いわば、日本仏教における最初の寺だ。
推古天皇はここで即位し、592年、豊浦宮(とゆらのみや)とした。飛鳥で最初の宮だ。小墾田宮(おはりだのみや)へ移る際、蘇我馬子に宮跡を授けた。馬子はここに、本格的な寺院としては法興寺(現在の飛鳥寺)に次ぐ2番目の寺院として、豊浦(とゆら)寺を建立した。その跡に現在の向原寺が建つ。
豊浦宮から豊浦寺への変遷を物語る遺構が、向原寺境内で保存されている。6世紀後半の宮跡と思われる掘立柱(ほったてばしら)穴と石敷きがあり、その上の土を突き固めた版築(はんちく)は、7世紀初頭の寺の講堂の基礎部分と考えられている。
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向原寺境内の豊浦宮跡の遺構
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向原寺は「明日香村を理解する一助になれば」と、快く遺構の見学に応じてくれる。さらに周辺民家の玄関先にある「推古天皇 豊浦宮跡」碑の横には、塔の中心の礎石と思われる巨石もあり、飛鳥川のほとり、甘樫丘の麓(ふもと)に壮大な伽藍(がらん)をもつ寺であった往時をしのぶことができる。
向原寺はまた、元善光寺(もとぜんこうじ)ともいわれる。欽明朝に百済よりもたらされた仏像は、蘇我氏によって向原の寺で祭られていたが、排仏派の手により「難波(なにわ)の堀江」に棄てられた。それを信濃国の本田善光が拾い上げ、信濃に持ち帰り祭ったのが長野の善光寺だそうだ。
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向原寺にある観音菩薩像の頭部=(C)仏像ワンダーランド提供
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向原寺の南には難波池と呼ばれる小さな池があり、ここが「難波の堀江」であるという土地の伝承がある。この難波池から江戸時代中期、古い仏像の頭部が発見された。はじめは難波の堀江に棄てられた釈迦像かと思われたが、観音菩薩像の頭部だった。体部や光背、台座は江戸期に補われ、寺宝としてお祭りされていたが、昭和49年に盗難にあい、行方不明になっていた。
その盗難仏がオークションに出品されているのが判明。仏像を買い取り、平成22年、36年ぶりに寺に戻ってきた。実に数奇な運命をもった像である。事前に連絡すれば、お寺の説明を聞きながら拝観することができる。
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観音菩薩像は、優しい表情が飛鳥時代の仏像の特徴をよく表している。もしかすると飛鳥時代の豊浦寺で祭られていたものかもしれない。
観音菩薩像の特徴として、頭部に「化仏(けぶつ)」と呼ばれる小形の阿弥陀如来像がある。この像の化仏は線刻だが、これが実にかわいい。「カワイイ」が大好きな日本人の源流を、ここに見る思いがする。
私はこの像に出会ってから、飛鳥時代の観音菩薩像の化仏を拡大鏡で拝観させていただくようになった。今では奈良だけでもかなりの数の「カワイイゆるキャラ化仏」を確認し、仏像拝観の楽しみのひとつになっている。
春まだ浅い飛鳥。千数百年変わらぬ和やかな雰囲気をたたえ、優しく包みこんでくれる仏像に、また会いに行きたくなった。
(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 辰馬真知子)
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