なら再発見
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山添の毛原廃寺跡 ―― 礎石が語る幻の大寺
 
 奈良盆地内にはたくさんの廃寺跡(はいじあと)がある。宇陀市の駒帰(こまがえり)廃寺跡、桜井市の粟原(おおばら)寺跡、香芝市の尼寺(にんじ)廃寺跡など。その実態はほとんど分からず、大伽藍(だいがらん)の跡と思われる礎石(そせき)が残るだけだ。
 しかし、地下には瓦片や土器片などが残り、寺のあった時代がかろうじてうかがえる。
 一般的に礎石が残る建物は、基壇があって礎石の上に柱と瓦屋根が載る、いわゆる礎石立ちの建物で、飛鳥時代や奈良時代に寺院建築として建てられたものが多い。
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 山添村は奈良県の東北部、三重県との県境に位置する高原の村で、人口はおよそ4千人。茶畑が広がる自然の情緒が豊かな村だ。
 村の案内に1万2千年前の縄文時代草創期からの長い歴史と伝統が息づくとある通り、村の各所に著名な史跡が点在している。大寺院跡もあり、それが毛原(けはら)廃寺跡だ。


毛原廃寺金堂跡の礎石

 毛原廃寺跡は名阪国道神野口(こうのぐち)ICから15分ほどのところ。木津川の支流の1つである笠間川左岸、眺望豊かな傾斜地にある。ここは毛原の里といい、集落の周囲に礎石が点在している。
 この礎石群が1300年ほど前、大伽藍の威容を誇った毛原廃寺跡だ。その配置から南門、中門、金堂が南北方向に中軸を揃えて並ぶ伽藍が想定される。
 そこには「毛原廃寺址」の石碑が建てられ、大正15(1926)年に国の史跡に指定されたことが記されている。石碑の隣に説明板があり、伽藍全体の礎石の配置が示されている。石碑の立つ場所が金堂跡で、巨大な礎石が数多く並んでいる。
 礎石の配置から、金堂は間口7間(24メートル)、奥行き4間(13メートル)の規模で、唐招提寺金堂に匹敵する堂々とした建物であったようだ。
 金堂跡の礎石には直径2メートル近く、円柱座の直径も70センチという巨大な石が使われている。礎石の上に立つ柱も直径70センチ程度あったということになり、平城宮の大極殿(だいごくでん)の柱に比肩されるほどだ。
 南の笠間川に向かって緩く40メートルほど下った畑の中には、中門跡の礎石が十数個、さらにその南に南門跡の礎石が6個あまり並んでいる。
 春日地区にある山添村歴史民俗資料館には、毛原廃寺跡から出土した瓦が展示されている。いずれも奈良時代の瓦と類似しているので、寺がその時代に建てられたことが分かる。
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毛原廃寺跡がある毛原の里=山添村
 毛原廃寺はこれほどの規模を誇る大寺でありながら、文献が全くない「幻の寺」だ。しかし寺地は東大寺領「板蠅(いたばえ)の杣(そま)(木材を切り出す山)」の境域内にあるので、大仏殿建立に必要な木材を切り出す山の管理所、または東大寺の末寺ではないかと考えられる。
 のどかな毛原の里に万葉歌が一首伝わる。和銅5(712)年、長田王(ながたのおおきみ)が伊勢の斎宮に遣わされるおり、山辺(やまのべ)の御井(みい)(泉)を見て詠んだ歌だ。
「山邊(やまのべ)の御井(みい)を見がてり神風の 伊勢(いせの)処女(おとめ)ども相(あい)見つるかも」 (万葉歌巻1−81)
 御井の所在について、大和名所図絵には「山辺の御井は毛原にあり」と記されており、万葉歌碑は毛原廃寺跡に建てられている。
 春まだ浅い2月中旬の毛原の里に人影を見ることはなかった。山にも里にも一気に春が来ると、梅や桜の花々が咲き乱れ、のどかな山村も華やかに彩られることだろう。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会理事長 小北博孝
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