< 第72回へ 第73回 2014年4月19日掲載 第74回へ > |
秀長さん ―― 郡山城と城下町づくりに尽力 |
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大和郡山市民が親しみを込めて「秀長さん」と呼ぶ豊臣秀長。郡山城の築城と城下町づくりを行い、現在の大和郡山市の基盤を築いた。
秀長は豊臣秀吉の弟で、ナンバー2だった。兄・秀吉を外交・内政両面で支え、決して兄より前に出ようとはせず、補佐役に徹した。秀長自身、「内々(うちうち)の儀は宗易(そうえき)(千利休)、公儀のことは宰相(秀長)存じ候(そうろう)」と言ったという。
郡山城の築城は、織田信長から大和国守護に任じられた筒井順慶が筒井から郡山に移り、始まった。
天正13(1585)年、順慶の子・定次(さだつぐ)が伊賀へ国替えになり、その後に秀長が入った。兄・秀吉とともに5千人の兵を率い、興福寺の僧侶たちに出迎えられ、堂々と入城したという。
大阪城の秀吉とともに畿内を固めるため、大和・和泉・紀伊の3国をあわせて百万石の居城とし、本格的な城づくりを急いだ。紀州根来寺(ねごろじ)の大門を運んで城門とし、石材不足のため、平城京羅城門(らじょうもん)の礎石や各地の寺の礎石や石仏、五輪塔までも石垣に転用した。
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秀長の位牌を預かる菩提寺の春岳院=大和郡山市
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当時、大和国は興福寺を頂点とする寺社勢力が権勢を誇っていた。秀長はその基盤となる財政力や軍事力の弱体化を図る政策を次々と打ち出し、その力をそいだ。
経済面では、門前町として栄えていた奈良の弱体化をはかり、新しい拠点である郡山の町づくりを進めた。例えば、味噌や酒といった日常食料品の売買を郡山のみで許可し、奈良では禁止した。
さらに同業者による町づくりを行い、営業上の独占権を与え、税金を免除した。
この町々を「箱本(はこもと)十三町(じゅうさんちょう)」と呼ぶ。運営は十三町の自治で、月当番の町は会所(かいしょ)に特許状の入った朱印箱を置き、「箱本(はこもと)」と染めぬいた小旗を立て、町全体の治安や消火、伝馬(てんま)などの世話をした。
秀長は天正19(1591)年、郡山城で没した。秀吉はその死を深く悼み、戒名「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士(たいこうでんいんぜんあしょうしゅんがくしょうえいだいこじ)」(「亜相」は大納言の中国風呼び名)にちなんで、菩提(ぼだい)寺・大光院を建立した。
秀長の官位が大納言であったことから、大和郡山市箕山町の墓地は「大納言塚」と呼ばれるようになった。
葬儀は20万人の人出を記録。地元町衆は墓所の祭礼を欠かさず、その徳を慕った。
秀吉が全幅の信頼を置いていた秀長がもう少し長生きしていれば、秀吉の暴走ともいわれる朝鮮出兵、豊臣秀次の追放、千利休の切腹などをいさめ、止めたのではないかとされる。
豊臣家の滅亡後、秀長の家臣だった藤堂高虎(とうどうたかとら)は、大光院を京都の大徳寺に移した。墓地の管理は、位牌(いはい)を預かる菩提寺として東光寺(現在の春岳院、大和郡山市新中町)に託した。
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豊臣秀長の官位にちなんで名付けられた「大納言塚」=大和郡山市
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その後、墓地は荒廃したが、江戸時代に春岳院の住僧栄隆(えいりゅう)、訓祥(くんしょう)、郡山町民の尽力で整備され、五輪塔が建てられた。毎年4月22日には市民の手によって大納言祭が開かれている。
春岳院(拝観は要予約)には現在、「豊臣秀長画像」と「箱本十三町御朱印箱及同文書」が残る。
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秀長は郡山だけでなく、県内にさまざまな足跡を残している。
長谷寺(桜井市)本堂の再建を支援し、秀吉に滅ぼされた紀州根来寺から専誉(せんよ)僧正を招いた。僧正はその後、長谷寺を本山とする真言宗豊山(ぶざん)派の基盤を築いている。
また、春日若宮おん祭を実質的に主催し、大宿所(おおしゅくしょ)(奈良市餅飯殿(もちいどの)町)を興福寺遍照(へんじょう)院跡に建てている。 残念ながら秀長時代の建物は失われているが、秀長を慕う地元民の思いは今も脈々と受け継がれている。
(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄
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