なら再発見
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織田木孤紋(おだもっこもん) ―― 桜井に息づく信長の命脈
 
 数年前に箸墓(はしはか)古墳辺りを散策中、たまたま慶田寺(けいでんじ)という寺に立ち寄った。立派な山門に、きれいに掃き清められた境内。静寂なたたずまいの中、妙に胸が高まるのを覚えた。その瞬間、本堂の軒先の丸瓦の文様に目がくぎ付けになった。
 織田木孤紋(もっこもん)が入った瓦だ。築地塀(ついじべい)や山門にも同じ文様瓦が葺(ふ)いてある。ここは織田家ゆかりの寺に違いないと直感した。
 織田信長の居城・清州城には、黄金の木孤紋の棟飾(むねかざ)りがある。これと同型の文様がこの寺に使われているのだ。私の故郷は、清須(きよす)市。郷土の英雄・織田信長の香りが、桜井市で感じ取られたことがうれしかった。信長の残像を今の奈良にもっと見たい、知りたいという衝動に駆られた。

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 天正2(1574)年、信長は大和国を支配していた松永久秀を下し、「4層の天守閣がそびえ立つ驚くべき華麗な城」と称賛された多聞城の検分のため、奈良へ下向してきた。その折、東大寺正倉院の秘宝の香木(こうぼく)・「蘭奢待(らんじゃたい)」を切り取り、天下人の武将であることを見せつけたのは有名な話だ。


織田木孤紋の入った慶田寺軒先の瓦=桜井市芝

 元禄時代、大和国は郡山藩の他に1〜2万石の7つの小藩があり、そのうち3藩が織田信長末流の大名であった。
 そのひとつが宇陀松山藩だ。初代藩主は織田信雄、信長の次男だ。天正10(1582)年、本能寺の変で信長と長男信忠が亡くなり、織田家の跡目(あとめ)相続を決める清須会議が開かれ、信雄は尾張国などの百万石の領主に就いた。しかし、信雄は台頭してきた豊臣秀吉に次第に勢力をそがれた。
 その後、1615年大坂の陣で徳川方につき、家康から宇陀郡に所領を与えられ、織田松山藩が成立した。
 だが4代藩主・信武のとき、藩政内部の対立から事変に発展し、幕府から廃藩の処分が下された。世に言う「宇陀(うだ)崩れ」だ。元禄8(1695)年のことだった。このとき、織田家に関する施設も全て取り壊された。今、織田80年の城下町には、本郷川に架かる「織田橋」や宇陀川に架かる木孤紋入りの橋名柱がわずかに散見されるのみだ。
 城下西の山中にある徳源(とくげん)寺には信雄など歴代藩主の五輪塔が残り、菩提寺(ぼだいじ)となっているが訪れる人もなく、寂しい。また城下南の拾生(ひろお)には織田家の祈願寺であった大願寺がある。現在はコミカルな「おちゃめ庚申(こうしん)」や「焼けずの観音」が祭られ、薬草料理が人気の寺となっている。

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建物の壁に木孤紋の校章がある織田小学校=桜井市芝
 松山藩以外の織田信長末流の2藩は、信長の弟・長益の流れをくむ。長益は、茶人として著名な織田有楽斎(うらくさい)如(じょ)庵のことで、関ヶ原の戦いの功労で大和国内に3万2千石が与えられた。大坂の陣の後、京都に隠居し、4男の長政(ながまさ)と5男の尚長(ひさなが)に自らの所領を1万石ずつ分与した。長政が戎重藩(かいじゅうはん)(後、芝村藩と称した)、尚長が柳本藩の藩主となり、織田家の流れを引く両藩は明治4年の廃藩置県まで250余年もその名を保った。
 慶田寺は芝村藩の歴代藩主の墓所であり、私が見た立派な山門はかつての陣屋(じんや)の南大手門(みなみおおてもん)を移築したものだった。寺の東方には織田の名を冠し、木孤紋を校章とした小学校がある。城郭風校舎に築地塀、城門のごとき校門の様相は、まるで芝村藩陣屋と石垣遺構が残っているかのようだ。
 一方、柳本藩は陣屋御殿が橿原神宮文華殿(ぶんかでん)として移され、跡地は柳本小学校となり周辺の家並みの風情は江戸時代の名残を今もよく留めている。
 戦国の覇者・織田信長の命脈が、ここ奈良に今もなお息づいている史実と出合えたのは、まさに私にとっての再発見だ。


(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 鈴木浩)

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