< 第77回へ 第78回 2014年5月24日掲載 第79回へ > |
奈良晒 ―― 製作技術の継承期待 |
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奈良晒(ならさらし)は、江戸時代に奈良の町を中心に生産された高級麻織物だ。武士や町人の礼服や夏の衣料に使われ、「麻の最上は南都なり、近国よりその品数々出れども染めて色よく着て身にまとわず汗をはじく故に世に奈良晒とて重宝するなり」と称賛された。
もともとは、室町時代から寺院の僧衣用に麻織物が作られていたと伝わる。安土桃山時代に清須美(きよすみ)源四郎が晒しの方法を改良して評判となった。
江戸時代には「御用布(ごようふ)」として幕府の庇護(ひご)を受けて商業生産がはじまり、南都随一の産業として発展。「町中十の物九つは布一色にて渡世仕(つかまつ)り候(そうろう)」といわれた。
奈良晒の生産は糸つくり、織り、晒しの3工程に分かれる。原料の青苧(あおそ)は麻の一種で「からむし」とも呼ばれる苧麻(ちょま)の繊維を精製加工したもので、越後地方や最上地方などから取り寄せた。糸つくりや織りは、問屋が介在して農村女子の家内副業として行われ、仕上げ加工の晒しは南都近郊の般若寺村と疋田(ひきた)村(いずれも現在の奈良市)の専門業者が行った。
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月ヶ瀬奈良晒保存会のメンバーが製作した高級麻織物「奈良晒」の作品
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生産のピークは元禄期。その後、越後上布(じょうふ)、近江上布など他国産との競争に勝てず、明治維新で武士という最大の市場を失って衰退していったが、江戸時代を通じて最高級の麻織物とされた。
茶巾(ちゃきん)は茶道の点前(てまえ)で茶碗(ちゃわん)を拭くための布であるが、奈良晒の茶巾は千利休好みの高級品として現在まで珍重されてきている。
繁栄のなごりは奈良市水門町の名庭・依水(いすい)園に残っている。2つに分かれる庭園のうち、前園は江戸時代に清須美道清が造り、後園(こうえん)は明治時代に関藤次郎が造ったが、いずれも奈良晒業者だった。明治時代まで近くを流れる吉城川(よしきがわ)に晒場(さらしば)があったという。
奈良市月ヶ瀬では、江戸時代から農閑期の副業として糸つくりや織りが行われてきた。大和高原の山間部に位置する稲作に適した平地の少ない土地で、貴重な現金収入源だったこともあり、明治以降もその技術が保存されてきた。よった糸が切れないよう、湿気の多い土間においた織機で冬の厳冬期に作業するのは大変つらいものだったという。
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月ヶ瀬奈良晒保存会が所有する奈良晒の織機
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昭和54年、奈良晒の紡織技術が奈良県の無形文化財に指定された。
その伝統技術を唯一保存継承しているのが、月ヶ瀬奈良晒保存会(猪岡益一会長)だ。
毎週水曜日、農林漁業体験実習館「ロマントピア月ヶ瀬」で奈良晒伝承教室が開かれている。現在の会員数は28人。糸つくりから織りまでの複雑な工程を先輩から学びつつ製作に励んでいる。
群馬県東吾妻(ひがしあがつま)町の伝統工芸品で最上級の麻といわれる「岩島麻」を材料に、手で繊維をつなぐ糸つくりの工程「苧績(おう)み」から始める。織機にかける量の糸を用意し織機にかけるまでに6か月以上、織りに1か月以上。1反の布をつくるのに1年近くかかるという。
できあがった作品は販売していないが、毎年3月梅まつりの時期に「春の作品展」が開催される。
まれにだが、依頼を受けて製作することもある。京都の元遊郭・島原にある元料亭の角屋(すみや)(現在は角屋もてなしの文化美術館)の入り口にかかる紋入り暖簾(のれん)は、会員が分担して製作したものだ。
商業生産としては岡井麻布商店(奈良市田原地区)や中川政七商店(奈良市元林院(がんりいん)町)で、手織り生産が続けられており、奈良市内の店舗やネットで販売されている。
伝統ある奈良晒の製作技術を絶やさず、若い世代にも受け継いでいってもらいたい。
(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄)
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