< 第88回へ 第89回 2014年8月30日掲載 第90回へ > |
釆女神社と采女祭 ―― 「えんむすび」の神様に |
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奈良市の猿沢池の西北角に、釆女(うねめ)神社がある。
春日大社の末社(まっしゃ)で祭神(さいじん)は采女命(うねめのみこと)。奈良時代、天皇の寵愛(ちょうあい)が薄れたことを嘆いた釆女が猿沢の池に身を投げ、この霊を慰めるため祀(まつ)られたのが神社の起こりという。入水(じゅすい)した池を見るのは忍びないと、一夜のうちに本殿が池に背を向けたと伝えられる。
釆女とは、朝廷で天皇や皇后に仕え、食事など身の回りの雑事を専門に行った女官のこと。飛鳥時代から、地方の豪族がその娘を天皇家に献上する習慣があった。
この神社の例祭が、毎年中秋(ちゅうしゅう)の名月の日に催される「采女祭」だ。例祭は午後5時、「花扇(はなおうぎ)奉納行列」から始まる。「花扇」とは秋の七草で美しく彩られた高さ2メートルほどの扇型のささげものだ。行列は総勢約200人、采女祭保存会が一般募集したお稚児(ちご)さんたちや、御所車(ごしょぐるま)に乗った十二単(じゅうにひとえ)姿の花扇使(はなおうぎのつかい)、姉妹都市福島県郡山(こおりやま)市のミスうねめ、地元のミス奈良たちが、天平衣装などをまとい、JR奈良駅から神社まで市中を練り歩く。
午後6時に本殿にて神事が行われた後、午後7時から「管絃船(かんげんせん)の儀」が始まる。
中秋の名月が猿沢池に映る頃、龍頭(りゅうとう)船に花扇を移し鷁首(げきす)船(鷁は想像上の水鳥)とともに幽玄な雅楽の調べの中、献灯が浮かぶ池を巡ったのち花扇を池中に投じ采女の霊を慰める。
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三条通を練り歩く花扇奉納行列(奈良市観光協会提供)
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猿沢池に身を投げた釆女の話は、平安時代初期に成立した歌物語の「大和(やまと)物語)」にある。采女の入水を聞いた「ならの帝」は猿沢池に行幸(ぎょうこう)し、柿本人麻呂に歌を詠ませた。
わぎもこが ねくたれ髪を 猿沢の 池の玉藻(たまも)と 見るぞかなしき
(わが愛する女(ひと)の寝乱れ髪が念頭に浮かんできて、この猿沢池の美しい藻と一体になってみえるのは、ほんとうに悲しいことであるよ)
帝自身も歌を詠んだ。
猿沢の 池もつらしな わぎもこが 玉藻かづかば 水ぞひなまし
(猿沢の池もつれないことよ。我が愛する女が美しい藻の底に沈むのなら、水が乾いてしまってくれればよかったのに)
天皇は池の辺(ほとり)に墓を造らせて帰った。
この「ならの帝」とはどの天皇かについては諸説あり定まらない。また柿本人麻呂は飛鳥時代の人で時代が合わないが、宮廷歌人の代表ということだろう。
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入水した采女の出身地ともいわれる福島県郡山市に伝わる釆女伝説は、少し違う。
約1300年前、陸奥の国安積(あさか)の里(現在の郡山市片平(かたひら)町)では冷害が続き、朝廷へ貢ぎ物ができなかった。奈良の都からの巡察使(じゅんさつし)・葛城(かつらぎ)王(後の左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ))に、里人たちは窮状を訴え、貢ぎ物の免除をお願いしたが、聞き入れられなかった。
その夜の宴で、王は里長(りちょう)の娘・春姫を見初(みそ)め、姫を帝の采女に献上することを条件に、貢ぎ物を3年間免除することになった。姫には相思相愛の許嫁(いいなずけ)・次郎がいたが、悲しみをこらえて別れた。恋人を失った次郎は悲しさのあまり、山の井の清水に身を投げた。
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猿沢池を巡る龍頭船(奈良市観光協会提供)
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都での姫は、帝の寵愛を受けていたが、中秋の名月の日、次郎恋しさに猿沢池畔の柳に衣をかけ入水したように見せかけ、里へ帰った。姫は次郎の死を知り、あとを追って同じ清水に身を投じた。郡山市にも「うねめ神社」があり、毎年8月この采女伝説にちなんだ「うねめまつり」を盛大に開催している。
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釆女が衣を掛けたという衣掛(きぬかけ)柳は神社とは反対側の岸にあったが、今は枯れて失われ、碑だけが残っている。祭神の采女命は「私と同じような悲しい目に合わせたくない」と「えんむすび」の神様となっている。祭りのときには、月明りで針に糸を通すことができれば願いがかなうという「糸占い」が授与される。
今年の中秋の名月の日は9月8日。美しい満月の下、管絃船が池を巡る幻想的な光景を眺めたいものだ。
(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄)
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