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二上山麓 ―― 悲劇の大津皇子に思いはせ
 
 二上山は大阪と奈良の県境にあり、雄岳(おだけ)と雌岳(めだけ)の二つの峰が印象的な山だ。古くは「ふたかみやま」とも呼ばれ、聖なる山として万葉の時代から崇(あが)められてきた。古代の大和では、死者の魂は二上山の彼方(かなた)へ去り、そして三輪山からの日の出とともに生まれ変わると信じられてきた。
 二上山は、悲劇の皇子と称される大津皇子(おおつのみこ)の鎮魂の場所だ。天武天皇の皇子の中で、皇位継承の有力候補は天智天皇の娘である大田皇女(おおたのひめみこ)を母とする大津皇子と、その実妹・鵜野(うのの)皇后(後の持統天皇)を母とする草壁(くさかべの)皇子であった。
 大田皇女はやがては皇后となる可能性があったが、大津皇子の幼少期に死去してしまう。そのため大津皇子は後ろ盾が乏しかったが、日本書紀や懐風藻(かいふうそう)の記述によると、文武両道に優れ、人望も厚かったという。
 わが子を皇位につけたいと切望する鵜野皇后にとって、大津皇子は目の前の巨大な障壁と感じたに違いない。天武天皇が亡くなるや否や、皇后は大津皇子に謀反(むほん)の罪を負わせ葬り去ったとの説が伝わる。
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大津皇子の「本当の墓」との説が有力な鳥谷口古墳=葛城市染野

 日本書紀によると、686年10月2日に謀反の疑いで、大津皇子と加担者30余人が捕えられた。処分は早く、翌日には皇子は、磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)(現在の桜井市戒重)の自宅で、24歳の若さで死を賜(たまわ)った。一方、加担者は一部を除きみな許された。大津皇子の重罰にくらべ、加担者に対する余りにも寛大な対応から、仕組まれた陰謀(いんぼう)だったという疑惑が浮かぶが、全ては闇の中で知る由(よし)もない。しかし草壁皇子は即位することなく2年後に28歳の若さで死去してしまう。鵜野皇后の落胆はどれほどのものだっただろうか。
 大津皇子の姉・大伯(おおくの)皇女が弟の死を歌に残している。
 うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を弟世(いろせ)と 我が見む (巻2−165)
 この万葉歌には「大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬(はふ)る時、大伯皇女の哀しみ傷(いた)む御作歌(みうた)」という題詞(だいし)が付けられている。「移し葬る」という言葉が、皇子の遺体を二上山に改葬したことを物語る。
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 現在、雄岳山頂には宮内庁が管理する大津皇子の墓がある。一説によると、この場所に決定されたのは、大伯皇女の歌を参考にしただけで、根拠はないという。いくら皇族とはいえ、奈良盆地のどこからでも見える二上山の頂上に反逆者と目された人物の墓を築造することは、常識的にはあり得ないだろう。
 二上山山麓に鳥谷口(とりたにぐち)古墳という古墳時代終末期(7世紀後半)の古墳がある。この古墳こそが大津皇子の本当の墓だとの説が有力だ。石室は成人を埋葬したとは思えない小空間であり、火葬墓または改葬墓の可能性が高い。しかも石室の石の一部には石棺の蓋石(ふたいし)が転用されており、特異なつくりの墓だ。大津皇子の祟(たた)りを恐れて、大急ぎで石棺を転用した石室を作り改葬したのだろうか。
 そんな思いでこの古墳を眺めると、鳥谷口古墳こそ大津皇子の改葬墓としてふさわしく思えてくる。大津皇子に思いをはせながら、鎮魂の舞台となった二上山麓を散策されてはいかがであろうか。
 奈良まほろばソムリエの会ではウオーキング・ツアー「まほろばソムリエと巡る大和路」を実施している。大津皇子を偲んで鳥谷口古墳を訪れる「當麻ロマン街道」など全10コースが用意されている。詳しくは、会のホームページ内のサイト(http://sguide81.blog.fc2.com/ )。

(NPO法人 奈良まほろばソムリエの会 露木基勝)
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