< 第95回へ 第96回 2014年10月18日掲載 第97回へ > |
史跡頭塔 ―― 玄ムの首塚説もあった土塔 |
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8月に現地説明会が行われた都塚(みやこづか)古墳は「飛鳥のピラミッド」と呼ばれたが、「奈良のピラミッド」といえば史跡頭塔(ずとう)だ。東大寺の南・奈良市破石(わりいし)町にある方形7段の土塔(どとう)で、奇数段には石仏が配置されている。大正11年には国史跡に指定された。
この土塔は奈良時代の767年に造られたが、平安時代に大きな台風により崩壊が進んだ。その後も放置され、積んだ石が盗まれたりして今日に至った。
昭和の末期までは円墳のような小山にカシなどの常緑樹が生い茂り、森のような状態で木々の間から石仏が見えた。「頭塔の森」と呼ばれていた。
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頭塔は、昭和61年度から発掘調査と復原整備が始まった。表土をはがすと、整然とした石積みが現れた。動かせる石は番号をつけて外し、木も抜いて試掘のための穴を掘り、内部調査を行った。
すると土中から東大寺と同じ文様の瓦が大量に出てきた。中心部には心柱が抜かれた穴と、心礎の石、銭貨、琥珀(こはく)玉などが見つかり、上部の仏室の残骸も出土した。これらをもとに石積みの上に仏室を設け、心柱を立て、相輪を付けた五重塔のような復原案が提案された。
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ピラミッド状の史跡頭塔=奈良市高畑町
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土中からは、より古い3段の土塔の跡が見つかった。年代的に、孝謙天皇が母光明皇后の病気平癒を願って造営したとされる。しかし工事がずさんだったため、東大寺の実忠和尚が塔身を崩して欠陥を補正、塔身を3段から7段に変えた。森のような状態も残したいと、復原整備は北半分だけとした。
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この土塔は僧玄ム(げんぼう)の首塚伝説により、いつか頭塔と呼ばれるようになった。天平時代、20年近い遣唐使生活から帰国した吉備真備(きびのまきび)と玄ムは橘諸兄(たちばなのもろえ)に重用され、藤原広嗣(ひろつぐ)は太宰府少弐に任じられた。これを左遷と感じて強い不満を抱いた広嗣は、彼らの排除を願って直訴し挙兵したが、反乱だとする聖武天皇の軍勢に斬殺(ざんさつ)された。「藤原広嗣の乱」だ。
しかしその後、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると玄ムは筑紫観世音寺別当に左遷、同寺の落慶法要の場で亡くなった。玄ムの死は広嗣の怨霊(おんりょう)の仕わざという噂が広がった。噂は年を経るごとにエスカレートし、物語化した。
「玄ムが法要を務めているとにわかに空が曇り、雷が玄ムの上に落ち、首を取って雲の中へ入った。1年後、玄ムと書かれた枯れ髑髏(どくろ)が興福寺の庭に落ちた。弟子たちが拾って弔ったのが頭塔だ」というまことしやかな伝説もできた。
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奇数段にはめ込まれた石仏
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頭塔の石仏は1段目が5体、3段目が3体、5段目が2体、7段目が1体で、計11体。これが四方にあり、計44体あったことになる。表面に出ていた石仏のほか、発掘調査により新たな石仏も見つかり、現在28体が確認されている。うち22体が重要文化財に指定された。なんと1体は郡山城の石垣に転用されている。
頭塔は、前日までに現地管理人の仲村表具店に電話予約(電話0742−26−3171)すれば見学できる。見学時間は9時〜17時。しかし春と秋の特別公開期間中は、予約なしで見学できる。いずれも協力金として300円が必要だ。
特別公開期間中は、南都銀行のOBによる「ナント・なら応援団」が無料でガイドする。応援団幹事の門口誠一さん(75)は「全国的にも珍しい土の五重塔です。まだまだ知らない人が多いですが、ぜひお訪ねください」と語る。今秋の特別公開は10月24日から11月12日まで。この機会にお立ち寄りいただきたい。
(NPO法人奈良まほろばソムリエの会専務理事 鉄田憲男)
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