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出羽三山と大和 ―― 父殺され 都を脱出した皇子
 
 出羽三山と奈良の関係をご存じだろうか。出羽三山は山形県にある月山(がっさん)、羽黒山(はぐろさん)、湯殿山(ゆどのさん)の3つの山の総称で、古くから山岳修験の霊場として知られる。江戸時代には西の伊勢参りと並び、出羽三山を詣でる東の奥参りは自己の内面に向かう旅として、東国の人々が一生に一度は参拝したい場所だった。
 この出羽三山の開祖は6世紀の大和朝廷の皇子と伝わる。皇子の名は蜂子皇子(はちこのおうじ)、第32代崇峻(すしゅん)天皇の皇子だ。崇峻天皇は蘇我馬子に暗殺された。歴史上、臣下により殺害されたただ一人の天皇だ。
 社伝によると、父天皇亡きあと、身の危険を感じた蜂子皇子は都を脱出。海路、現在の山形県庄内地方の八乙女浦(やおとめうら)に着き、三本足の烏(からす)に導かれて羽黒山に入って羽黒権現を感得(かんとく)、山頂に社を創建したのが始まりとされている。今から1400年ほど前のことだ。後世に役行者(えんのぎょうじゃ)、空海、最澄も修行したと伝えられる羽黒派古修験道の本山だ。

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奈良・桜井市にある下居神社

 崇峻天皇の倉梯柴垣宮(くらはししばがきのみや)は現在の桜井市倉橋にあったものと思われ、その陵は倉橋の小字(こあざ)天皇屋敷と呼ばれた場所にある。この地に天皇の位牌(いはい)を祀り、その宮跡とも考えられる金福寺(きんぷくじ)があることから、明治期に指定された陵だ。
 現在では本当の陵は別の場所だという考えが有力だが、倉橋の地は崇峻天皇ゆかりの地であることは確かで、蜂子皇子もここで暮らしていたことだろう。
 延喜式神名帳(927年)に下居(おりい)神社の記載がある。この神社は倉橋の北、下(しも)にある下居神社であるとする説、同じく南、下居にある神明(しんめい)神社であるとする説がある。いずれにしても、位置関係から崇峻天皇倉梯宮の鎮守の社と考えていいだろう。  その同じ名前の社、下居社が羽黒山の山頂に向かう神々しく深い杉並木の参道沿い、禊(みそぎ)川を渡って神域に入ってすぐのところに鎮座する。蜂子皇子は出羽三山開山にあたり、自分の故郷の鎮守社を祀り、新天地での鎮守社としたのだろう。
 皇子のような運命に見舞われた人はよく御霊(ごりょう)となって、災いを起こしたりすると恐れられるものだが、皇子は違った。厳しい環境に身を置くことによって自らを高めていき、その崇高な精神でよく人々の苦しみや悩みを除き、能除太子(のうじょたいし)と称されたという。また、稲作を伝えたともいわれ、日本有数の米どころ庄内平野の礎を築いたとも考えられる。


出羽三山神社の禊川と下居社=山形県鶴岡市

 そんな皇子も遠い故郷大和を思い、悲劇的な最期をとげた父帝をしのぶときには下居社に参ったのではないだろうか。

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 山頂に蜂子皇子を祀る蜂子神社がある。ここに祀られている蜂子皇子の尊像が9月末まで、140年ぶりに御開帳されていた。神仏習合の影響で仏教色が強く、仏像にちかいこの尊像は明治の神仏分離の嵐の中、破却をまぬがれるため厨子(ずし)の扉をかたく閉ざして守られた。  現存する皇子の尊像、肖像はどれも厳しい表情をしている。厄災から人々を守っているのだ。東日本大震災からの復興の祈りをこめての御開帳という。皇子の徳を慕ってその尊像を拝するため、多くの人が訪れた。
 自らの苦しみを乗り越え、人々の苦しみをも取り除き、心の平安をもたらした蜂子皇子の精神は大和から遠く離れた出羽の地で今も確かに息づいている。


(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 辰馬真知子)

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