< 第97回へ 第98回 2014年11月8日掲載 第99回へ > |
三宅町の杵築神社―― 牛頭天王とスサノオノミコト |
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三宅町は奈良盆地のほぼ中央部に位置し、飛鳥川と聖徳太子ゆかりの太子道(たいしみち)が南北に縦断している人口約7200人の町だ。面積は4.07平方キロメートルで、県内では最も小さい。この町に「杵築(きつき)神社」が3社もある。最も北に位置するのが屏風(びょうぶ)社。そこから太子道を南へたどると町役場の近くに伴堂(ともんど)社、南西部に但馬(たじま)社がそれぞれ鎮座する。
屏風社と伴堂社はおかげ踊りの絵馬(県有形民俗文化財)が有名で、但馬社は室町時代の十三重石塔で知られる。おかげ踊りとは、文政13(1830)年のおかげ参りとよばれる伊勢神宮への集団参詣の後、近畿各地で流行した豊年祈願と感謝の踊りをいう。
屏風社拝殿の絵馬には伊勢太神宮(いせだいじんぐう)の旗を立て、40人ほどの人たちが三味線などにあわせて踊る姿が描かれている。伴堂社拝殿の絵馬3面には神社の境内で多数の踊り子が輪になって踊る様子が描かれ、いずれも当時の風俗を知る上で興味深い。
3社の祭神はいずれも須佐男命(すさのおのみこと)だ。県内各地にある八坂神社も同じ祭神で、総本社は京都祇園の八坂神社だ。いずれも江戸時代までの神仏習合時代には牛頭天王(ごずてんのう)を祀り、スサノオノミコトと同体とされていた。屏風社には牛頭天王社と刻まれた燈籠が残っている。
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但馬杵築神社=三宅町
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京都の祇園祭は、平安時代から始まった御霊会(ごりょうえ)が起源といわれる。当時の人々は世の中に怒りや恨みを持ったまま亡くなった人の御霊が災厄をもたらし、疫病の流行はそれを司(つかさど)る神のたたりと考えた。牛頭天王はインドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神で、疫病をはやらせる神様と考えられたので、この神様を慰める祭りを行った。この御霊会が祇園祭となった。
また一方、牛頭天王はやはりインドの神様である武塔天神(むとうてんじん)(武塔神(むとうのかみ))とも同体と考えられた。旅の途中で一夜の宿を頼んだ神を裕福な弟の巨旦将来(こたんしょうらい)は断り、貧しい兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は粗末ながらもてなした。
後に再訪した武塔神は弟の妻となっていた兄の娘に茅(ち)の輪(わ)を付けさせ、それを目印として娘を除く弟の一族を滅ぼした。武塔神はみずからスサノオノミコトと正体を名乗り、以後茅の輪を腰に付けていれば疫病を避けることができると教えたという。
夏越(なごし)の祓いとして神社で茅の輪くぐりを行ったり、祇園祭でいただく護符「蘇民将来之子孫也」付の粽(ちまき)を厄除けにしたりするのはこの話に基づいた信仰だ。
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牛頭天王社と刻まれた屏風杵築神社の燈籠=三宅町
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慶応4(1868)年、明治政府は、神道と仏教を明確に区別するいわゆる神仏分離令を出した。通達の中には、牛頭天王を神仏習合の悪例と名指ししたものもあった。さらに政府は、それまでの「天子」や「帝(みかど)」という呼び方を「天皇」と改めたため、牛頭天王は天皇の名をかたる不敬の輩(やから)となった。
牛頭天王を本尊とする社は、全て「スサノオノミコト」を祭神とする神社に変えさせられた。京都の祇園感神院(ぎおんかんしんいん)は寺院部分を全て取り壊されて円山(まるやま)公園となり、祇園社部分だけを八坂神社と改称した。
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三宅町の杵築神社3社が、八坂神社や素戔嗚(すさのお)神社と改称しなかったのはなぜだろうか。杵築とは、道路の往来の安全祈願の意をこめて名づけられたとの説もあるが、その名の由来は出雲大社(島根県出雲市大社町杵築(きづき)東)にあるようだ。
現在の出雲大社は、平安時代の中ごろから江戸時代の初めまで土地の名にちなみ杵築大社と呼ばれ、祭神はスサノオノミコトであった。
その後祭神を大国主命(おおくにぬしのみこと)に変え、明治4年に出雲大社と改称した。杵築大社はスサノオノミコトを祀る総本社とされていたので、牛頭天王社から改称の際にその名を採用したのではないかと思われる。
古来神も仏も分け隔てなく敬うのが、長い歴史の中で培われてきた自然な風習であった。それは今も私たちの生活の中に生きているように思う。
(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄)
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