< 第98回へ 第99回 2014年11月15日掲載 第100回へ > |
郡山藩士 荒木又右衛門―― 仇討36人斬り 剣豪中の剣豪 |
|
江戸時代の剣豪・荒木又右衛門(あらきまたえもん)。講談や浪曲などで昔から語り継がれ、映画では、三船敏郎や長谷川一夫が演じた時代劇のヒーローだ。
元禄忠臣蔵・曾我兄弟の仇討と併せて日本三大仇討(あだうち)のひとつと言われる鍵屋の辻の決闘で助太刀(すけだち)をし、36人斬りの活躍をして見事仇討を遂げさせたという、剣豪(けんごう)中の剣豪。奈良とは深い縁のある武芸者だ。
荒木又右衛門は、慶長4(1599)年に伊賀国服部郷(はっとりごう)荒木村で生まれた。父は、大和郡山城主筒井定次(つついさだつぐ)に仕えた後、備前岡山藩池田忠雄(ただかつ)に仕官した下級武士だった。又右衛門は幼少時から柳生道場に通い、柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)の剣術を磨いた。
父に付き従った岡山では、藩主次男の武芸相手役を仰せ付(つか)り、ここで出合った宮本武蔵からは武道の心得も教わったという。やがて武芸者として身を立て、奈良の白毫寺(びゃくごうじ)南で近在の若者を集め道場を開いた。
奈良から柳生に向かう滝坂道(たきさかのみち)の春日奥山には、首切(くびきり)地蔵と呼ばれる首の所に割れ目がある高さ2メートル位の石仏がある。又右衛門が試し切りしたものと言われている。
剣名の高い彼には果し合いの申し出が多く、戦いが行われる合図に、この地蔵の首に赤い紐(ひも)が結ばれたとの話が、後年脚色されたようだ。
※ ※ ※
|
荒木又右衛門が切ったと伝わる首切地蔵=奈良市白毫寺町
|
戦国の余韻が残っていたこの時代、将軍徳川家光は江戸城内に諸国の著名な武芸者を一堂に集め、武芸を競わせた。これが世に言う寛永御前試合(かんえいごぜんしあい)だ。又右衛門も出場し、武蔵の子・宮本伊織(いおり)と闘い、勝負は引き分けとなった。
当時の奈良では郡山藩士と奈良町を治める奈良奉行衆とは抗争が絶えなかった。些細(ささい)なことから刃傷沙汰(にんじょうざた)が頻発、とかく刀に掛けて物を言う風潮があった。
この寛永時代に郡山藩主松平忠明(ただあき)に250石取りの剣術指南(しなん)役として招かれ、郡山城の南方の箕山(みのやま)に住んだ。県道城廻り線の矢田筋の路地を東に入った風格のある屋敷の玄関前に、「荒木又右衛門屋敷跡」の石製標柱が立っている。
さて、仇討の動機となる事件が勃発する。寛永7(1630)年、又右衛門の義弟で、岡山藩家臣の渡辺源太夫(げんたゆう)が同僚の川合又五郎に殺された。又右衛門は義弟の源太夫の兄渡辺数馬(かずま)と仇討のため又五郎の行方を追う。又五郎は郡山藩家臣の叔父を頼り奈良に潜伏し、転害門や法華寺辺りの隠れ屋を移り住んだ。
|
郡山藩剣術指南役当時の荒木又右衛門屋敷跡=大和郡山市城南町
|
時に、寛永11(1634)年11月の朝、奈良を出奔(しゅっぽん)し、江戸潜入を図る又五郎を発見。遂に伊賀上野の鍵屋の辻で、大勢の助っ人を従えた又五郎と数馬・又右衛門は決闘と相成った。ここで、又右衛門が36人斬りの離れ業を披露し、数馬は又五郎と5時間に及ぶ死闘で見事本懐を遂げる。
そして、又右衛門の名声は天下に轟(とどろ)くこととなったが、実際は2人斬殺(ざんさつ)し、残りは負傷や敵前逃亡者ばかりだったというのが史実のようだ。
※ ※ ※
三大仇討のもう一つ元禄忠臣蔵に登場する将軍綱吉の側用人(そばようにん)・柳沢吉保(よしやす)の嫡男吉里が郡山城主となる。また、同将軍に「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」を進言した護持院隆光(ごじいんりゅうこう)もまた郡山藩ゆかりの人物だ。
かつての郡山藩の出来事は、はるか遠い過去のもとなったが、郡山城内にある郡山高校は文武両道の精神を今に受け継いでいる。
(NPO法人奈良まほろばソムリエの会副理事長 鈴木浩)
|
[なら再発見トップページへ]
|