奈良時代、税を免れるため、正式な戒を受けず、僧侶になる者が増えてきました。
733(天平5)年、聖武天皇は、正式な授戒を行う師を求めて、唐に留学僧(るがくそう)を遣わしました。鑑真和上は、日本に行く者はいるか問いますが、危険を伴う航海に誰も手を上げません。和上は自ら渡航を決意し、5回の失敗を乗り越え、20名余りの弟子たちと共に来日を果たしたのは753(天平勝宝5)年の暮でした。翌年、和上は東大寺大仏殿の前で、聖武太上天皇以下440余人に授戒を行いました。
和上が日本に行く決意をした大きな理由は長屋王が贈った1000枚の袈裟(けさ)でした。袈裟に刺しゅうされた文字から、両国が仏法で強く結ばれていると思ったからです。
その後759(天平宝字3)年、新田部親王(にいたべしんのう)の旧邸宅跡を賜り、修行の道場、「唐律招堤(とうりつしょうだい)」(現在の唐招提寺)を開きました。国宝の講堂は、平城京の東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)を移築改造した天平時代の建物です。
和上の死後、弟子たちが建てた金堂(国宝)には、薬師如来立像、盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)、千手観音立像など国宝仏が堂々とした姿で並んでいます。
御影堂には、弟子たちが和上の死が近いことを悟り造った鑑真和上坐像(国宝)が安置されており、6月5、6、7日だけ開扉されます。
2013年、本物同様のお身代わり像が造られ、開山堂でいつでもお会いできるようになりました。
御影堂の東側には和上の御廟(ごびょう)(墓)があり、故郷揚州市(ようしゅうし)の瓊花(けいか)が美しく咲いて、和上を見守っています。
(奈良まほろばソムリエの会会員 塩崎ヒデミ)
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