猿楽(さるがく)は、奈良時代に中国から伝わった滑稽(こっけい)な寸劇や曲芸などを行う散楽(さんがく)と、日本古来の土着の芸が一体化し、平安時代に生まれたとされます。
室町時代初期に大和では、現在の田原本町に円満井(えんまい)座、川西町に結崎(ゆうざき)座、桜井市に外山(とび)座、斑鳩町に坂戸座が猿楽を演じました。大和猿楽四座と呼ばれ、興福寺、春日大社や妙楽寺(現・談山(たんざん)神社)、法隆寺など有力社寺に所属し、法会(ほうえ)や祭礼で芸を披露しました。
そこに登場したのが結崎座の観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)の父子です。観阿弥は猿楽に音曲と物語性を加え、世阿弥は物語性を深化させ、亡霊らが主人公になる「夢幻能」を考案、能を確立したとされます。
座は大和以外にもありましたが、豊臣秀吉や徳川家康が大和の座を厚遇。江戸幕府は行事で能を重用しました。結崎座は観世流、外山座は宝生(ほうしょう)流として江戸に本拠を移し、坂戸座は金剛流として京を拠点とし、円満井座は金春(こんぱる)流として大和を本拠としました。
この4流に江戸時代創設の喜多流を含めた5流は、能と狂言を合わせた能楽の世界を支えてきました。2008年、能楽は世界無形文化遺産に登録されました。
川西町結崎に「室町時代のある日、寺川のほとりに空中から一個の翁(おきな)の面と一束の葱(ねぎ)が落ちてきた」との伝説があります。面は埋納されて面塚と呼ばれ、葱は結崎ネブカとして知られます。
観世流関係者が1936(昭和11)年、「面塚」と「観世発祥之地」の石碑を寺川沿いに建立し、戦後の河川改修で現在地に移されました。
(奈良まほろばソムリエの会理事 久門たつお)
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