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第42回 2022年03月03日掲載
「の」 能楽の始まり大和猿楽四座
 猿楽(さるがく)は、奈良時代に中国から伝わった滑稽(こっけい)な寸劇や曲芸などを行う散楽(さんがく)と、日本古来の土着の芸が一体化し、平安時代に生まれたとされます。
 室町時代初期に大和では、現在の田原本町に円満井(えんまい)座、川西町に結崎(ゆうざき)座、桜井市に外山(とび)座、斑鳩町に坂戸座が猿楽を演じました。大和猿楽四座と呼ばれ、興福寺、春日大社や妙楽寺(現・談山(たんざん)神社)、法隆寺など有力社寺に所属し、法会(ほうえ)や祭礼で芸を披露しました。
 そこに登場したのが結崎座の観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)の父子です。観阿弥は猿楽に音曲と物語性を加え、世阿弥は物語性を深化させ、亡霊らが主人公になる「夢幻能」を考案、能を確立したとされます。
 座は大和以外にもありましたが、豊臣秀吉や徳川家康が大和の座を厚遇。江戸幕府は行事で能を重用しました。結崎座は観世流、外山座は宝生(ほうしょう)流として江戸に本拠を移し、坂戸座は金剛流として京を拠点とし、円満井座は金春(こんぱる)流として大和を本拠としました。
 この4流に江戸時代創設の喜多流を含めた5流は、能と狂言を合わせた能楽の世界を支えてきました。2008年、能楽は世界無形文化遺産に登録されました。
 川西町結崎に「室町時代のある日、寺川のほとりに空中から一個の翁(おきな)の面と一束の葱(ねぎ)が落ちてきた」との伝説があります。面は埋納されて面塚と呼ばれ、葱は結崎ネブカとして知られます。
 観世流関係者が1936(昭和11)年、「面塚」と「観世発祥之地」の石碑を寺川沿いに建立し、戦後の河川改修で現在地に移されました。

(奈良まほろばソムリエの会理事 久門たつお)

【面塚と観世流の石碑】
(住所)川西町結崎1904の2
(交通)近鉄結崎駅から徒歩約15分
(金春流の石碑)興福寺西金堂跡(奈良市)
(宝生流の石碑)宗像神社境内(桜井市)
(金剛流の石碑)龍田神社境内(斑鳩町)
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