西ノ京丘陵の南端の郡山城は、天守台のある本丸を中心に内堀、中堀、外堀に囲まれた総構えの構造を持つ平山城(ひらやまじろ)です。天守台は犬が伏せたように見えるので、「犬伏城(いぬぶせじょう)」とも呼ばれています。
大和を統一した筒井順慶は1580(天正8)年に筒井城から郡山へ移り、築城を始めました。
順慶が没すると、1585年、豊臣秀吉の弟秀長が入城し、大和、和泉、紀伊国の百万石の大名にふさわしい城郭に整備します。追手門は紀州根来寺(ねごろじ)の大門を移築。石垣に石仏、墓石、礎石など転用石を用い、本丸、毘沙門郭(びしゃもんかく)を築造しました。
大和大納言と称された秀長は、紺屋町、綿町、材木町など「箱本(はこもと)十三町」が自治運営する「箱本制度」を創設。城下町の振興に力をそそぎます。
その後、増田(ました)長盛が外堀を造成。関ケ原の戦の後、廃城となりますが、江戸時代に水野、松平、本多氏が城主に入った後、柳沢氏の治世が明治維新まで続きました。
明治初期に多くの建物が取り壊されましたが、1980年に築城400年を記念して追手門が復元されました。豊臣秀長の家紋「五三桐紋(ごさんのきりもん)」が掲げられています。
2014年、天守台の発掘調査で、天守閣は5層の高層建築だったと推定。天守台からは大阪城と同じ金箔(きんぱく)瓦や軒丸瓦も発見され、本格的な築城は秀長時代に始まったことが裏付けられました。
復元整備された天守台からは秀長が見た奈良の原風景を展望できます。恒例のお城まつりには、ぜひ登城して、秀長の時代をしのんでいただきたいです。
(奈良まほろばソムリエの会顧問 鈴木浩)
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