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聖林寺 十一面観音菩薩像 ―― 米田家「わが家におられた」
 
 十一面観音菩薩といえば、まずは桜井市の聖林寺の像が思い起こされる。
 半ば閉じた目としっかり結んだ口。そしてふくよかな面相は神々しく、そして同時に人間らしい優しさと美しさに満ちあふれている。造像されたのは奈良時代。以来、どれだけの人々がこのお顔を仰ぎ見てきたことだろうか。
 どれだけの人々が悩みや思いのたけを語りかけてきたか。そして観音様はそのすべての願いを受け止め、数々の力を人々に授けてきたのである。
 この十一面観音菩薩像は760年頃に東大寺の造仏所で造られ、大神(おおみわ)神社と一体であった大御輪寺(おおみわでら)のご本尊として祀られた。
 木心乾漆(もくしんかんしつ)の技法で作られた代表的な仏像だ。大まかな形の木像を彫刻し、その上に木粉(きこな)と漆を練り合わせた木屎(こくそ)漆を盛り上げる木心乾漆の技法は顔や身体の豊かな肉付き、柔らかみを表現する優れた技だった。

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 明治元(慶応4)年の神仏分離令によって、この観音様は嵐の中に投げ込まれることとなった。大御輪寺が廃寺となり、ご本尊の観音様は居所がなくなり、やがて聖林寺に落ちつかれ、祀られるという数奇な運命をたどる。
 「桜井を縦断して聖林寺まで仏様を荷車で運んだ。坂道はみんなで押し上げた」と、廃仏の時勢の中でも、多くの篤志家が力を出し合った心温まる情景が伝えられている。


聖林寺の十一面観音菩薩像(聖林寺提供)

 当時の聖林寺は学問寺で、聖林寺の住職と大御輪寺の住職が学僧仲間だった。そのつながりで、聖林寺に移されたのは自然のなりゆきだった。
 ところが、観音様が聖林寺に移されるにあたっては、もう一つ複雑な経過が桜井では語られている。
 「聖林寺の十一面観音様は一時期だが、わが家におられた」と桜井市橋本の米田昌徳さんは話す。
 「大御輪寺の住職は我が家から出た郭道(かくどう)さんだった。廃寺にあたり還俗、十一面観音様とともに橋本に帰ってきた」と米田家では言い伝えられている。

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 郭道和尚は聖林寺で学び、廃寺となる大御輪寺の最後の住職だった。廃寺にあたっては他の僧侶とは異なり神官の道を求めず、十一面観音菩薩像とともに寺を去ったのだ。


十一面観音菩薩が一時期まつられていたという米田昌徳氏宅=桜井市橋本

 「わが家で観音様に毎日、お経をあげ、給仕をしていた。寝仏という姿で別座敷に祀られていた」が、米田さんのおばあさんの言葉である。郭道さんは明治2年7月に亡くなり、その後、観音様は聖林寺に移されたということだ。
 米田家に明瞭に伝承されてきたこのエピソード、これは信じるべきだろう。
 その後、聖林寺の仏像の調査に訪れたアメリカ人の哲学者アーネスト・フェノロサが十一面観音菩薩像を激賞。さらに和辻哲郎や白洲正子などの紹介もあって、その素晴らしさが広く知られるようになっていった。
 東大寺の造仏所で造られた十一面観音菩薩は、大和朝廷の故郷である三輪で長く祀られ、神仏分離令により三輪の大御輪寺を去ることとなったが、いまは聖林寺できらきらと光り輝いている。
 観音様は人々の思いを受け止め人々の心を救ってこられたが、同時にたくさんの人々の篤い思いで守られてきた。そんな歴史を忘れてはならない。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 雑賀耕三郎)
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