なら再発見
< 第85回へ                  第86回 2014年7月26日掲載                  第87回へ >
大和神社 ―― ご祭神は「戦艦大和」にも分祀
 
 奈良県には「祭りはじめはちゃんちゃん祭、祭りおさめはおん祭」という俗謡(ぞくよう)がある。大和の祭りは4月1日の大和(おおやまと)神社の「ちゃんちゃん祭」に始まり、12月15日〜18日の春日大社の「春日若宮おん祭」で終わるという意味だ。
 大和神社は天理市新泉(にいずみ)町にある。延喜式にも記された古社だ。ご祭神は日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)(主祭神)、八千戈(やちほこの)大神、御歳(みとしの)大神。大和の地霊神の日本大国魂大神と武神の八千戈大神は、どちらも大国主(おおくにぬしの)神の異名。御歳大神は、豊作の守り神だ。
 第10代崇神天皇は、天照(あまてらす)大神と日本大国魂大神の2神を宮中に祀(まつ)っていたが、その神威(しんい)を畏(おそ)れていた。そこで豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託し、天照大神を笠縫邑(かさぬいのむら)に祀らせた。
     ◇
 日本大国魂大神は、渟名城入姫(ぬなきいりひめの)命に託して祀らせたが、命は髪が落ち体が痩せて祀ることができなかった。そこで改めて倭直(やまとのあたい)の一族である市磯長尾市(いちしのながおち)に日本大国魂大神を祭らせた。これが大和神社の起源とされる。
 そんな由緒があるので、昔から神封(じんぷ)(俸禄(ほうろく))は伊勢神宮(1130戸)に次いで多く、平安時代初期には大和をはじめ、尾張、常陸、武蔵、出雲、安芸の6カ国において327戸に及び、朝廷も厚く尊ぶ格式の高い神社だった。
 この神社の祭祀(さいし)を行った倭直は記紀に登場し、明石海峡で神武天皇の水先案内人を務めた。淡路島、四国の吉野川流域、大阪湾沿岸に分布する海の民を支配した氏族だとされる。  「万葉集」に、山上憶良が遣唐使の無事の帰国を同神社の日本大国魂大神に祈った歌がある。海の民を支配した氏族が祀るこの神に、航海の無事を祈ったのだろう。


大和神社拝殿=天理市新泉町

 平成24年8月、この神社に「戦艦大和ゆかりの神社」の大きな石碑が建立された。
 戦艦大和とは、太平洋戦争当時、日本海軍によって建造された史上最大の戦艦だ。航海の無事を祈り、戦艦大和には同神社の日本大国魂大神が分祀されていた。「海の民を支配した氏族が祀る神」という縁もあった。しかも戦艦大和の全長は、同神社の参道の長さとほぼ同じ263メートルだった。


「戦艦大和ゆかりの神社」石碑。左は祖霊社

 昭和17年には神符遷座(しんぷせんざ)祭が営まれ、同神社の護符(お札(ふだ))が大和の船内に祀られた。その後も艦長や乗組員が同神社をたびたび参拝したという。戦艦大和は昭和20年4月、九州南方海域で撃沈された。そして今日、大和の戦死者2736人の霊は、護衛艦の戦死者985人の霊とともに、境内の石碑の隣にある祖霊社に祀られている。
 大和神社の4月1日の例祭では、祭礼一行は神社の東南1キロにあるお旅所へ向かう。そのときに鉦鼓(しょうこ)をチャンチャンと鳴らしながら行くので「ちゃんちゃん祭」の名が付いたといわれる。
 また9月23日の秋の大祭では、紅幣(べにしで)踊りが奉納される。江戸時代、干魃(かんばつ)に苦しむ農民が大和神社に雨乞いを行い、願いが成就し豊作となった。その感謝の気持ちを踊りで奉納したことにちなむという。
 大和神社へはJR長柄駅から徒歩7分。ぜひ、お参りいただきたい。

(NPO法人奈良まほろばソムリエの会専務理事 鉄田憲男)
なら再発見トップページへ
COPYRIGHT (C) 奈良まほろばソムリエの会 ALL RIGHTS RESERVED.