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第52回 2018年02月01日掲載
大和支配の大規模拠点 ―― 平群町の信貴山城跡


かつて信貴山城があった信貴山。右が雄岳(437b)で左が雌岳(400.5b)

 信貴山城は大和と河内国境、生駒山系の南側に位置する標高437bの信貴山上に築かれました。南北朝時代に楠木正成が築城したとされるなど伝承は多いですが、史料では1536(天文5)年に河内の木沢長政が使ったことが確認でき、この頃には相当な規模の城が築かれていたと思われます。1559(永禄2)年には、松永久秀が改修し入城、南都に築いた多聞城とともに大和支配の拠点としました。
 信貴山城は基本的に土を盛った土塁のような構造でしたが、山頂には小規模ながら天守も存在していたと考えられ、大和最大規模の中世城郭だったと思われます。北側の主尾根には石垣、土塁、切崖そして門のある居館があったと推測され、古絵図には「松永屋敷」も確認できます。そのような信貴山城も1577(天正5)年、織田信長に攻められ松永氏は滅亡、信貴山城は廃城となりました。現在も山上からは大阪平野南部の眺望が楽しめます。

【奈良まほろばソムリエの会 柏尾信尚】



信貴山城址の石碑

■メモ■

信貴山城跡にはJR・近鉄王寺駅から奈良交通バスで約25分、信貴大橋下車、信貴山朝護孫子寺の境内を通り、徒歩約40分。
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