後醍醐天皇の皇子である護良(もりよし)親王は僧となり大塔宮(おおとうのみや)と称した後、天台座主にも就任しました。後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕をめざす元弘の変を企てた際には、還俗(げんぞく)して吉野で挙兵し、6万人の幕府軍を相手に善戦しました。
本陣を構える金峯山寺の蔵王堂近くまで幕府軍が迫ってきた際は死を覚悟しましたが、忠臣の村上義光(よしてる)が身代わりとなって自害したことにより、高野山へ落ち延びることができました。義光の首は、里人が埋葬して供養したと伝えられています。
建武の新政では征夷大将軍に任じられましたが、やがて後醍醐天皇に疎まれて失脚し、鎌倉で幽閉後、足利直義に殺害されました。最期の時、脳裏には吉野の雄大な自然が浮かんでいたのではないでしょうか。皇紀2600年を記念して「大塔宮仰徳碑」が建てられました。
【奈良まほろばソムリエの会理事 池内力】
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